【読書ノート】「ミライの授業」

「14歳のきみたちへ」と題して、中学生に向けた講義集なんだけれど、大人でも知らないことだらけ。5時限分の分量にしては、非常に中身が濃い。学校で毎日こんな授業が展開されれば、きっとすごい人材が輩出されるだろうなあと思いながら読んだ。

 

冒頭で、今の時代はどんどん技術が新しくなり、ロボットやAIに仕事を奪われる時代になってきているけれど、こんな時代に生きていることを不幸な時代だととらえず、未来を次のように考えようと提案している。

未来には、ひとつだけいいところがある。

それは、「未来は、つくることができる」という点だ。

そうだよなと思った。いつの時代にも「未来をつくる人」がいたのだ。だから君たちもそういう「未来をつくる人」になろうと呼びかけている。本の中では、あくまでも若い人たちに呼びかけているけれど、僕みたいに50を超えたおっさんでもまだまだ「未来はつくれる」と思う。実際この本でも取り上げられている伊能忠敬は56歳から蝦夷地の測量に出かけたし、緒方貞子さんは上智大の教授から国連難民高等弁務官に選ばれたのは63歳の時である。カーネルサンダースがケンタッキーフライドチキンをはじめたのは65歳からだ。まだまだ僕も若いのだよと思いながら読み進めた。

 

未来をつくる5つの法則として

法則1 世界を変える旅は「違和感」からはじまる。

法則2 冒険には「地図」が必要だ。

法則3 1行の「ルール」が世界を変える。

法則4 全ての冒険には「影の主役」がいる。

法則5 ミライは「逆風」の向こうにある。

という5つをあげている。

 

この本は上記5つの視点をテーマに、未来を考えるヒントとして20人の偉人を取り上げている。が、単なる偉人伝集になっていないのは、一般的によく知られていることとは少し違う視点で人物を取り上げている点だと思う。

 

例えば、ナイチンゲールは看護士で有名だけれど、本当は特殊な円グラフで兵士たちの死亡原因を主張した「統計学者」だったということとか、ニュートンは中学生の時には学年で下から2番めの成績だったとか、森鴎外は医者としてはダメで陸軍の中の「権威の思い込み」にとらわれていた人だったとか、伊能忠敬の測量は実は地球の大きさを知りたかったからだとか、コペルニクスは地動説をすぐには発表せず30年も経ってから発表したとか、次々と知らないこと、興味をそそるような内容を展開している点がこの本の優れた点だと思う。

 

高校のころそういえばフランシス・ベーコンの4つのイドラ(思い込み)って習ったような気がするが、今もう一度読み返してなるほどと思った。4つのイドラとは、

1 人間の思い込み(種族のイドラ)

… 人間の身体的な特徴や脳のしくみによる思い込み(目の錯覚など)

2 個人の思い込み(洞窟のイドラ)

… 自分の経験や所属している組織の中での思い込み

3 言葉の思い込み(市場のイドラ)

… 伝聞・うわさにまつわる思い込み

4 権威の思い込み(劇場のイドラ)

… 権威のある人や有名人の言葉、テレビなどのニュースなどを信じてしまうこと

こういう思い込みの鎖を断ち切るには「観察と実験」が必要とのこと。それにしてもこれらのことは、今の時代でもぴったり合致していると思う。ワイドショーやフェイクニュースを信じる大人の実に多いこと。老人世代はいまだに昔の常識を現代にあてはめてしまうし、多くの会社は昔の成功体験にしがみついて、自分たちが小さな井戸の中にいることを忘れ、海外の現状に目を向けようとしない。

 

最近、少し考えればわかるようなことを自分の頭で考えようとしない人が増えているような気がする。現代は情報が溢れていて、すぐに検索すればわかるようになって便利なのだけど、ネットに書かれていることが本当なのか?と疑うことも必要だと思う。

 

立命館アジア太平洋大学の学長(ネットライフ生命創業者)の出口治明氏が多くの著作の中で日本人に欠けているのは「リベラル・アーツ」だと書かれている。「リベラル・アーツ」直訳すれば「自由な芸術」であるが、通常下記の「自由7科(セブンリベラルアーツ)」と言われているものがローマ時代末期に成立し、今なお欧米の大学では「教養」の基礎として取り上げられているとのことである。

【3学 (トリウィウム)】言語に関わる3科目

「文法」 (Grammar)

「修辞学」(Rhetoric)

「弁証法(論理学)」(Logic)

【4科 (クワードリウィウム)】 数学にかかわる4科目

「算術」(Arithmetic)

「幾何」(Geometry)

「天文」(Astronomy)

「音楽」 (Music)

この7科の上に「哲学」(Philosophy)があり、さらにその上に「神学」(Theology)がある。神学ってTheologyって言うんですね。セオリー(語源は「じっくり見ること」)なのか…。

物事を考えていく上では、こうしたリベラル・アーツの知識ベースの上に更にベーコンの言う「観察と実験」が必要な気がする。

 

僕自身も、昨年、会社の中でどうも「違和感」を感じて大学院に行ってみようと思ったのは、こういった「教養」が足りないと日に日に感じてきたからだ。でもこういう「他の人と何か違う」という「違和感」を感じるのは大事なことだとこの本にも書かれている。

 

最後の章には「変革者はいつも「新人」である」と書かれている。世代交代のことを述べているのだが、50を過ぎたおっさんでも、いつでも「新人」になれると思う。読書量が足りないのでこれからはもっと本を読み、大学院で得た知識をベースに、これからの時代の変革者になれればなと思う。もちろん著者のように知り得た知識を次世代を担う若者たちに教える立場になれればそれもイイなと思う。

 

そういう意味では、14歳に向けたこの本だけど、どの世代の人が読んでもいいのだと思う。すごく前向きになれた。まだまだ人生は何度でもやり直せるし、いくつになっても未来を創ることはできるのだ。

 

評価:
瀧本 哲史
講談社
¥ 1,620
コメント:14歳に向けたお話。だが、大人でも知らないことだらけ。まだまだ人生これからだよね。

読書 | comments(0) | trackbacks(0)

【読書ノート】「定年後」

昨年ベストセラーになった楠木新氏の「定年後〜50歳からの生き方、終わり方〜」という本をもう一度読み直してみた。

もともとは「LIFE SIFT〜100年時代の人生戦略〜」を読んで、昨年の夏ごろにこれからの50年をどう過ごそうかな?という不安感もあり手に取ってみたのがきっかけ。

 

銀行の同期が昨年相次いで、出向・転籍ということで銀行以外の会社に移り、第2の人生を歩みだした。銀行の場合は銀行本体がお膳立てしてくれるので、それなりにハッピーな感じがする。が、一足お先に勝手に他社に転職した僕は気がつけば、どっぷりとその企業の中に浸かってしまい、曲がりなりにも部長職の役職にとどまっているので、なんだかこれからもずっとこの会社に所属出来るのでは?と錯覚してしまうのでいけない。よく考えたらあと6年と11ヶ月しかない。会社は銀行と違って出向といったお膳立てはしてくれず、60歳になったらいきなり定年になり、役職がはずれてシニアで再雇用という形になるだけである。

 

この本では、冒頭にいきなり60歳以降の定年延長の話が出て来る。嘱託扱いになって給料が激減するため、両親を抱えた知人が転職するかどうかに迷うシーンである。結局は再雇用の道を選ぶのだが、さすがにこの時点でどうこう考えるのは遅い気がする。それで、事前にライフプラン研修などというものが各企業で行われている。が、その内容は下記の4点らしい。

1.受け取る年金額をきちんと計算して老後の資産を管理すること

2.今後長く暮らすことになる配偶者と良好な関係を築くこと

3.これから老年期に入るので自分の体調面、健康にも十分留意すること

4.退職後は自由な時間が生まれるので趣味を持たないといけない

もちろん、これらは重要な事なのだが、著者は40年近く働いてきた人たちにいきなり趣味をとかいうのはおかしいのではと投げかけている。僕もそう思う。僕など1番の資産はないし、2番はもう破綻している(というか離婚した)し、3番の健康も常に血圧が高く不安がいっぱいである。4番の趣味だけはいっぱいあるけど…。

 

著者は47歳に体調を崩して休職したことがあるとのことで、その当時は転職を試みたり、定年後に関していろいろと著作がある加藤仁氏の本を読んだりしてということが書かれているのだが、50歳から社会人大学院で勉強を始めたという話が書かれているくだりを読み、「あ、そうだ僕も大学院に行ってみよう!」と瞬間的に思ったのである。「そうだ京都、行こう」のノリである。

 

母校の大学に社会人大学院が開講されていたのは前から知っていたが、自分に興味のある分野のコースがないのと、昨年までは海外出張ばかりでちょっと行けないなあとずっと思っていたが、海外の部署からその時は外れたばかりで、しかも、神様の御告げだかなんだかわからないのだが、この本を読んだ直後に、もう一度大学のホームページを検索すると、なんと、来年の4月からは新しく「都市ビジネスコース」というICT、AI、イノベーション、起業というまさに僕がやってきたことにぴったりの内容のコースが出来ていた。しかもホームページを検索したその日は最終説明会の2日前である。さっそく電話で申し込み、2日後には説明会を聞きに行き、夏休みに課題の論文を書き、大学の卒業証明書を添えて提出、9月に面接を受けたところ、めでたく合格した。しかも10月からの異動先の職場の隣のビルに大学院があるという絶好の環境。異動通達の翌日が面接日で「大学院に通えますか?」という質問に「なんと、昨日の異動通達で来月から隣のビルに転勤になりました!」と答えて、面接の場なのに笑いを取ったので合格できたのかも。

 

その後「急になんで大学院?」といろんな人に聞かれたが、きっかけはこの本である。定年後にはできれば自分で起業したいという気持ちが強くなってきたのが一番の理由である。

 

一昨年から仕事の成果をまとめた論文を書いたところ優秀賞に選ばれ、賞金30万円をもらったり、昨年は「IT賞」という有名な賞をもらったり、この9月にはなんと経済産業大臣賞まで受賞したが、結局は会社が受賞したという事実が残るだけで、個人的にはあろうことかその部署をはずされて、異動になってしまう始末。ま、会社なんてのはそういうものなんだなと昨年強く感じた次第。しかしながら、定年に向けて気持ちを入れ替えるにはこれは良いきっかけになったと今になって思う。

 

著者もそうだったように、誰にでも多かれ少なかれ40歳から50歳頃にかけてこんな時期があるのだと思う。そのときに何かをスタートできるかどうかはとても重要だと思う。

 

思い起こせば、僕の親父も資格取得の本を買ってきたり、会社の作り方といった類の本を50歳前後で読んでいた記憶がある。結局何もしなかったけれど、定年後2ヶ月後に突然狭心症で倒れ、その後は病院と家を往復する老後を歩むことになってしまった。今考えれば、定年後にぽっかりと人生の目的がなくなってしまったのではないかと思うのだ。

 

この本では、図書館で小競り合いを起こす人や、クレーマーになっている元管理職の実態を提示し、イキイキした人は2割未満なのでは?と書いている。

「定年になってはじめの1ヶ月程度は開放感に満たされたが、それ以降はやることがなくて本当に辛かった。家に引きこもりがちになって半年もするとテレビの前から立ち上げれなくなった」

という人もいるそうだ。

 

著者は、自分の経験も含め今では50歳前後の人向けの研修をやっているそうで、その中で、「子どもの頃に好きだったこと」を思い出すことにしてもらっていると書かれている。

しかし自らのキャリアの棚卸し作業をやってもらうと、子供の頃のスペースもあるのに、大半は入社したときからしか振り返らない。せいぜい大学時代からである。

誰もがこどもの頃を経て今に至っている。それなのに多くの人がそのことを忘れている。日本のビジネスパーソンは、未来にも過去にもつながらず、現在だけを生きているのが特徴だ。しかし間違いなく定年後はやってくる。

確かにそうだと思う。

 

僕も新人向けの研修で、将来の夢を描くときに「子どものときにやっていて楽しかったこと」を思い出すようにしてもらっている。やってて楽しいことが本来の仕事なんだと最近強く感じる。まあ、そんな思い通りに仕事についている人は少ないと思う。けれど、人生は一度限り。会社の中でそこそこの成果をあげていても、それが子供の時からやりたかったことか?と聞かれれば答えられなくなってしまう。

 

僕も人生の後半戦に入っており、思えば昨年はひどい一年だった。けれど、人生の中では何度でもチャンスはあるのだと心に命じて、もう一度新しい人生を歩めるように今年から頑張っていこうと思う次第であります。

 

評価:
楠木 新
中央公論新社
¥ 842
コメント:定年後の生き方を考えるきっかけになった本

読書 | comments(0) | trackbacks(0)

読書ノート 五木寛之「林住期」

JUGEMテーマ:読書

 

10年前に出版された本だが、五木寛之の「林住期」を読んだ。

 

仏教で説かれている話らしいが、人生を25年ごとに4つの期に分けて

(1)学生(がくしょう)期(0〜25歳)

(2)家住(かじゅう)期 (25歳〜50歳)

(3)林住(りんじゅう)期(50歳〜75歳)

(4)遊行(ゆぎょう)期 (75歳〜100歳)

と呼ぶそうだ。

 

(1)の学生期は「準備の時代」。心身を育て、経験を積むトレーニングの時代とのこと。まあ学校に行ってる時代です。

(2)の家住期は「勤労の時代」。社会人としての責任を果たし、家庭人としての義務を果たす時代とのこと。会社員時代という感じでしょうか?

そして、(3)の林住期は学生期、家住期で蓄えたものをベースに「離陸する時代」ではないか?と著者は問いかけています。

 

お金のために働くのではなく、やりたいことをやる時期。学生期、家住期に蓄えた力をもとに本来の自分の道へと進むべきと提案しています。好きなことをするためにはこの時期に、妻と別居(または夫と別居)するのも一つの道と書かれています。

 

なるほど、と合点がいく内容。離婚のすすめではないだろうが、子供を育て上げれば、親はいつまでも子供にべったりしていてはだめで、早めに家から巣立たせるようにしなくてはいけないだろうし、親たち二人も漫然と一緒に過ごすのではなく、それぞれ本来やるべきことをするのが重要だと思う。

 

ずいぶん昔に数学者の森毅さんも「人生20年説」という本を書かれており、人生を20年ごとに終わって4毛作の人生を歩むべきと主張されていたけれど、あの本も「林住期」のことを言ってたんだなと今になって思う。

 

私も現在52歳で「林住期」に入っている。好きなことをやっていくことにしよう。

読書 | comments(0) | trackbacks(0)

「東京タワー」を今頃読んで…。

JUGEMテーマ:読書

「そして父になる」や「海街Diary」でのリリー・フランキーさんの演技がとても自然体でああいう人になりたいなと思っていたら、年齢が一つ上なだけで驚いた。同世代なんだ。

小説というよりはほぼ自叙伝で、九州筑豊地方での子供時代、一人で大分の芸術高校に通っていたこと、武蔵野美術大学に入り、その後東京でアルバイト暮らしをしていたこと、そして現在に至るまでの間の母親との関係を綴っている。父親とは別居しており、小さい頃から母子家庭で育ち、最後の数年間は東京で母親と二人暮らしをしていたことを九州弁の会話が続く独特の文体で綴っている。

今やマルチタレントとして色々なメディアで活躍されているリリー・フランキーさんの生き様が手に取るようにわかる。

「家族」って何なんだろうと考えさせられる内容。僕自身もいろいろ悩みながら「家族」を維持しているが、将来のことまでは見通せない。子どもが成人すれば夫婦はどうなるんだろうか?と思うこともしばしばだ。

ところが、ここの「家族」はリリー・フランキーさんが4歳の時にすでに破綻していて、母子と父が別居生活に入る。その後住まいを転々としながらもオカンは一生懸命リリーさんを不自由なく生活をさせている。だが、母はずっと別居していたのに亡くなるまで離婚しなかった。「家族」は維持できなくても「親子」は続くのだ。

小説の中にいろいろな人が登場してくるが、オカンの料理を食べに集まってくるというのがなんだかほのぼのとしていい感じに思えた。結局同じ釜の飯を食うという関係、どうってことない話をしながら集まる仲間が人生においては大事なのかなと思ったりする。

昭和の時代は東京でもまだまだご近所の関係が残っていたが、ここ最近はとても希薄な関係、薄っぺらい関係に変わってきているような気がする。飲食店もチェーン店が増えて昔のような店主との会話がなくなってきている。コンビニが増えて昔ながらの八百屋や魚屋や駄菓子屋はめっきり減った。当然店頭での会話はなくなり、一日だれとも会話をせずとも過ごせるようになってしまった。引っ越しで隣近所に挨拶に行ってもお菓子などすら受け取らなくなってきているし、近所付き合いは子どもとの関係で維持出来るだけで、独身者や子どもの居ない場合は、ただ金を稼ぐための会社と自分の部屋の往復で人生が終わってしまいそうだ。子どもができたところで、子ども会の加入者は年々減少、自治会に至っては老人クラブと化しており、若い人がほとんどいない。僕達が本来過ごすべき居場所がなくなってきているのではないだろうか?
戦後は会社が家族的経営でそれを補完してきた。社員旅行や社内運動会、クラブ活動やさまざまな福利厚生。家族と会社が連結していたが、これがバブル崩壊で全部なくなり、地域社会を補完する場がなくなってしまった。「家族」がなくなってしまった原因はそういう大企業の動向にもあると思う。

だが、最近ベンチャー企業では社員旅行や社内イベントが復活してきているらしい。良い話だ。日本はもともと和の国。家族を中心として人と人とが繋がる社会であったはずだ。これらのベンチャー企業のように友達同士、家族同士が触れ合えるそういう場を創る企業を中心にこれからの日本が変わっていければなぁと思うのだ。
読書 | comments(1) | trackbacks(0)

【読書日記】「この世界の片隅に」こうの史代

JUGEMテーマ:読書

「この世界の片隅に」という漫画を上中下三巻買って読んだ。

彼女の作品では、前に「夕凪の街 桜の園」というのを読んだことがある。広島原爆のことを書いたもので、主人公は結局原爆症で亡くなっていくのだが、原爆投下前からの生活から投下後の様子、および原爆症の後遺症で主人公の目がだんだん見えなくなっていく様子を含めを淡々と語る内容だったが、この「この世界の片隅に」も主人公すずの子供の時(昭和9年)の話がプロローグとしてあり、本編は昭和18年にすずが広島から呉へ嫁ぐ話から始まり、日記風に淡々と時代の状況を伝える内容になっている。

すずが嫁いだ呉は日本の軍艦を作っていた呉海軍工廠のある街で、戦争時には呉工廠だけでなく隣の広村に広工廠、第11航空廠が設置され大きくなり、その結果広島原爆の前に大空襲があった街でもある。

漫画は途中、時代の風景を描きながらも庶民たちの生活を淡々と描いており、漫画の合間に「愛國いろはかるた」や「とんとんとんからりんと隣組」の歌の解説があったりして、戦争時代の状況が手に取るようにわかるようになっている。

空襲の時に姪っ子の晴美が亡くなってしまうシーンや街が焼きつくされてしまうシーンが描かれ、住んでいた広島には原爆投下と…淡々と流れていたストーリーの中で酷い内容が終戦に向けて描かれている。

戦争のことを語り継ぎ、二度と戦争を起こさないためにも、無謀な戦いを挑む勢力に対して日本はこれからは毅然と対応していかねばならないのだと思う。「安保反対、9条を守れ!」と唱えるだけでは平和は来ないのだと思う。
読書 | comments(0) | trackbacks(0)

「舟を編む」

評価:
三浦 しをん
光文社

今年の本屋大賞第一位の三浦しをん作「舟を編む」を読んだ。

辞書編纂の裏側をドラマ仕立てで進めていくストーリーがすごく面白かった。キャラの設定が非常にすぐれていて、一気に読める本だ。

辞書の話といえば、有名なのが15年ほど前に出版された赤瀬川原平の「新解さんの謎」である。こちらは三省堂「新明解国語辞典」のそれぞれの見出し語の説明にものすごい編集者の想いが詰まっていることを解き明かした本でこれを最初読んだ時はぶっ飛んだ。

有名な「恋愛」の語句説明であるが、手元の第4版の辞書を見てみると、

  •  れんあい【恋愛】ーする 特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。「ー結婚・ー関係」

え〜これが辞書?っていう感じですが、辞書がこれほど身近に感じたことはなかったです。あまりに面白いので当時職場のいろんな人に「新明解国語辞典」を宣伝してまわったのですが、おかげで女の子たちからは変な目で見られました。ま、最近の第7版ではかなり内容が変わっているとのことで、また買おうかなと思っています。

それにしても、辞書編纂はものすごく根気のいる仕事だと思う。言葉の意味をそれこそ5万とか6万というとてつもない数の言葉を一つづつ検証していくという仕事だ。『舟を編む』の中でも「用例採集カード」というものに事あるごとにメモする主人公や監修者の姿が描かれている。

途中、主人公の奥さんが、主人公と付きあう中で「言葉の重要性に気づいた」と言うシーンがあるのだが、この「言葉の重要性」というのがこの本の底流を流れている、著者が言いたかったことなのでは、と感じた。

「言葉」がなければ人間は感情を持てないし、思考もできない、あらゆることは「言葉」があってはじめてできることで、人間が人間であるのも「言葉」があるからだ。聖書に「始めに言葉ありき」という有名なフレーズがあるが、言葉がなければ神の意思も伝えられないし、理解できない。言葉=神であるといってもよいのかもしれない。

そういう意味で、辞書編纂の仕事は地道で時間がかかるものなのだけれど、誇り高き仕事なのだなと思える。

また、この小説に出てくる辞書編纂作業は、あくまで製本する紙の辞書を取り上げている。製紙会社社員のその辞書のためだけの特別な紙質へのチャレンジなども描かれており、究極の技術にこだわる日本人の心意気も感じられる内容になっている。

電子辞書全盛の時代に、ふと感じたのは、こういう技に対するこだわりが最近なくなってきているのではないかという危惧だ。とことん良い辞書を作るための紙へのこだわり、製本へのこだわり、印刷技術へのこだわり、装丁へのこだわり、そういったものが最近どんどん劣化しているような気がする。

僕自身社内でITを担当しながらも、ここ最近の「なんでもIT化」、「なんでも効率化」、とか「とにかく経費削減」というような風潮にはものすごい抵抗を感じてしまう。

本当にIT化が正しいことなんだろうか?

アナログな「人と人とのつながり」は大切じゃないんだろうか?とか、昭和時代のように職場では先輩を敬い、先輩は後輩をいたわり、和気藹々と仕事をすることのほうが大事なんじゃないか?と日々自問自答している。

それは決して「昭和時代に戻りたい」というノスタルジックな気持ちではなく、最近の日本はなんだかIT化、効率化と言い過ぎで、肝心なことを忘れてきたのではないかと思うのだ。

辞書編纂に人生を傾ける生き方もいいなあ、と読みながら、ふとそんなことを感じたのであります。

(追伸:この本のカバーを取り除いた本の装丁、めちゃ凝ってます。漫画本があるのかと思ってしまいました。)

読書 | comments(1) | trackbacks(1)

「ぼくらの祖国」

青山繁晴氏の本「ぼくらの祖国」を東京から帰る新幹線の車中で一気に読んだ。

読んでいる途中、右手に富士山が見えた。雲一つない快晴の青空の下、雄大な姿を見せる富士山を見ながら、祖国についての本を読む。いつもはボンヤリ風景を眺めてたり、iPhoneをいじっていることが多いのだけど、今日は富士山を過ぎてからはずっとこの本に集中した。

内容は「北朝鮮拉致問題」「東日本大震災と福島原発事故」「硫黄島の滑走路の下に埋められたままの英霊1万3千人」「日本海のメタンハイドレート」のことをメインに、日本という国を考える内容になっている。

青山繁晴さんの主張は関西テレビのニュース「アンカー」で毎週聞いているのでだいたいおさえているつもりでいるが、こうやって活字になると更に重みがましてくる。

特に「硫黄島(いおうとう→いおうじまは米国の言い方)」の話は圧巻だと思う。新幹線の中で不覚にも涙を零してしまった。YouTubeで以前この青山さんの硫黄島の話は視聴したことがあるのだが、それでもやはり本を読んでいるうちに身体の芯がゾクゾクしてきて、感極まってしまった。

僕らは事実をあまりにも知らなさすぎる。

硫黄島で犠牲になった2万1千の英霊のうちまだ1万3千人が島の地下壕などに埋まったままになっていること。しかもその遺骨の上に滑走路が作られているためそれを剥がさなければいけないこと。ところが青山さんの活動で始まった「滑走路を移転し今の滑走路を引き剥がして遺骨を収集する」という計画が2009年に防衛省で1億円の予算がついたのに今は消えてしまっていること。硫黄島を米軍が占領したかった理由は本土爆撃の拠点にするためだが、その爆撃の目的は日本の女性や子どもまでを殺して民族を根絶やしにするためだったこと。栗林中将はアメリカの戦略をわかっていたので一日でもそういう空爆を遅らせるために穴を掘って戦いを引き延ばそうとしたこと。など…。

僕らには知らされていないことが多すぎる。この本を読みながら、そういう硫黄島の戦いの背景を知り、日本人のあり方についてもう一度考えてみたいと思った。

栗林中将が最後の出撃時に述べた言葉がある。

「予が諸君よりも先に、先陣に散ることがあっても、諸君の今日まで捧げた偉功は決して消えるものではない。いま日本は戦に敗れたりといえども、日本国民が諸君の忠君愛国の精神に燃え、諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に対して涙して黙祷を捧げる日が、いつか来るであろう。安んじて諸君は国に殉ずべし。」(梯久美子「散るぞ悲しき」より)

はたして、今の日本人は、日本のために命を捧げた英霊たちの勲功をたたえ、涙して黙祷を捧げているだろうか?

英霊だけの話ではない。今の日本人は日本に対する「祖国愛」についても思考停止している。自国の国旗国歌に敬意を示さない国民がいるのは世界中の中でも日本だけである。

残念ながら戦後教育で刷り込まれた自虐史観が国民に浸透してしまっている中でなかなかこういう「祖国愛」についての主張をしても虚しいばかりだが、少しづつそのことに気づいてきている人も多い。

こういうのを右翼の思考だと思う人も、一度この本を読んでみてはいかがかと思うのである。
読書 | comments(0) | trackbacks(0)

2024年、会社はなくなる!?

マインドマップで有名な神田昌典さんの本を読んだ。

こういうハウツー系の表題の本はあまり手に取らないのだが、『なぜ、神田昌典は「日本人の未来は明るい」と言い切れるのか? 』という帯が気になって手に取ってみた。

読むとすごく引きこまれた。先日のブログにも書いたが、僕は歴史が70年くらいの周期で繰り返しているのでは?と思っているのだが、同じ事をこの著者も書いている。小泉元首相が浜口雄幸に似ていると言われた頃から歴史が繰り返しているのではと思っていて、その後の短命内閣の連続でまさしく戦前と同じだなと感じていたのだが、こうして本に書かれると、やっぱりと思ってしまう。同じようなことを考えている人がいるのだ。

ということで、現在は変革期に直面している。70年前といえば戦争の真っ只中である。変革と言うよりも破壊と創造が起こった頃と言えるのかもしれない。

で、第4章の表題がすごい「2024年、会社はなくなる!?」である。

確かに、今の大企業はどこかおかしい。意思決定が遅く、新規案件は軒並み握りつぶされる。全く前に進めない企業が多い。

その点中小企業は小回りが効いて意思決定も早い。ITの世界でもクラウドが出てきたので、小さな会社でもすぐに本格的なWeb開発環境を手にすることができる、大手の企業と対等に戦えるインフラが整ってきている。こうなってくると、機動性が高いかどうかが企業の勝敗を決めてしまう。大企業の人たちと話していると「内部統制がどうのこうの」「セキュリティがどうのこうの」などなど、動けない理由ばかりを並べ立てて、一向に前に進まない。これでは著者が言うようにあと10年もすれば大企業は衰退していくばかりだろう。

会社がなくなる理由として次の3点をあげている。
  1. 会社では社員が育たない。
    成熟期の既存事業はシステム化されているため従業員はオペレーターになっているだけ。事業立ち上げを経験できなければ脳を使わない。
  2. 会社では無から有を生み出す経験が積めない  
    新規事業を立ち上げるにはリスクがあるため、決裁されない。
    リスクのあることに会社は及び腰になるため、事業立ち上げ経験が積めない。
  3. 一部の仕事をしている社員が抜けると、会社には何も残らない。
    優秀な人材はフリーエージェントとして会社にいなくても仕事ができるようになる。
    かくして、会社にはオペレーターだけが残る。
その後について、著者はNPOが中心になっていくと言っている。ドラッカーの「ネクスト・ソサエティ」にもそう書かれていたが、確かに社会貢献活動が少しずつ日本に根付いてきているような気がする。

何のために仕事をしているのか?っていうのを突き詰めると結局、「世の中を良くするため」にということになるのではないだろうか。日本人は「利他」の精神があるし、他人のために何かをしようという人が多い。

これからは会社のビジョンが明確な機動力のある小さな会社やNPOが世の中の中心になっていき、現状維持ばかりで前に進まない大企業は衰退していくのかもと、あらためて感じた次第であります。

読書 | comments(0) | trackbacks(0)