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街場の大阪論

元「ミーツリージョナル」編集長の江弘毅さんの最新刊。

『「二度づけお断り」の思想』という章から始まるこの本。いやはや、何とも面白い本だ。その上、読み進めるうちに高校の先輩ということが判明。懐かしい高校時代を思い出した。

高校の頃はそれほど地元に愛着があった訳ではないのだけれど、今、思えば、都会とは全く異なった一種独特の街の雰囲気があっていい街だったと思う。ほんまもっと遊び倒しとけばよかったなあと思う。(結構遊び倒してたけど…)

この本の中でも地元志向について書かれている部分があり、なるほどと感じた部分がある。「自分の地元がいちばんうまい!」という章の中に、地元についてこういう説明をしている。地元と言っても住んでいる場所だけでなく、働いている場所、よく行く場所も地元と言ってよいのだけれど、著者の言葉を借りると

『わたしは地元とは「なぜここは他所ではないここ」であるかということと、「ここにいる私はなぜあなたではなくほかならぬ私」であるのかの関係性の網の目みたいなものであると考えているのだが、その網の目にひっかかる「誰によってでも代替されない私が依って立つ場所」が私に取っての地元である。だから地元の食べ物は大変うまいし、誠にいとおしいと感じる』

とのことだ、確かに自分という関係性の中で知り合いがやってるバーであったり、中学の同級生のやっているクラブであったり、その関係で知り合った人がやっている店だったり、友人に紹介してもらった店だったり、そういう関係性の中でできた「自分だけの居場所」というのはとても居心地がいいし、いちげんさんの関係ではないので、あたたかい空気がそこに漂っているという面も大きく、やっぱりそこで食べるものはおいしいということだ。

これの対極にあるのがファーストフードやチェーン店の居酒屋、回転寿し、ファミリーレストランという場所だ。ものすごくたくさんの外食産業があるが、いずれも自分の居場所にならない。やたら多くの外食産業が出来ては消え、同じ場所にどんどん違う名前の店が入れ替わっていく。

かくいう私も毎週のように近所の回転寿し屋さんに行ってしまう。べつにその店になじみの大将がいるわけでもなく、応対してくれる人もどんどん変わっていくにもかかわらずだ。その店との付き合いはただ、自分たちの家族の食卓がそこに移っただけで、となりの席の人たちとしゃべるわけでもなく、自分ちで作るよりも多くのコストを払って家事を代替してもらっているだけのような気がする。

この本を読んでからというもの、そういう店よりも、地元のちょっとしたお好み焼き屋とかうどん屋に行くようになってきた。その場所で一家でやっている店というのが実はいいのではないかと見直してみるようになってきている。

日本人が最近どうもおかしいなと感じている根本がそこにあるような気がする。パパママストアが潰れて、大型スーパーに買い物客をとられるようになってきた頃から日本がおかしくなってきている。商店街はシャッター街に変わってしまい、昔は商店街をとおるたびに挨拶をかわすおっちゃんおばちゃんがいなくなってしまったことで、子どもたちもおかしくなっているのかもしれない。

昔は衆人環視の状況があった。ちょっと寄り道して帰っていると、それを見た近所の魚屋のおばちゃんが母親に告げ口したりして、悪いことができにくい状況だった。逆に良いことをしていても母親の耳に入るので、何もしゃべらなくても「お母さんはお見通しだよ」という雰囲気があった。

そこここに目があるのは鬱陶しい面も多いけれど、それ以上の人とのつながりを感じさせられる面も大きい。人と人との交流が極端に減ってきたことと、チェーン店の急増とは関係が深いと思う。

今更パパママストアの復活を叫ぶのは無理なのかもしれないけれど、インターネットによる個と個のつながりが増えてきた昨今、もういちどそういう暖かい「地元」というか新しい「コミュニティー」を作っていくことも可能になってきているのではないかと思うのだ。
(また、本の話から横道にそれちゃった…)
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