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そこそこの人生

いろんな人と話をすることが多い。その中で、全てとは言わないが、総じて大手と言われる企業に勤めている人の話がつまらない。

そこそこいい給料をもらい、そこそこいい家に住み、結婚し、子供もいて、まあ、なんというかすべてがそこそこなのだ。

そういう人達は当然、冒険をしない。きっと会社でも重大な決断などしたことないのだろう。現状維持に毛の生えた程度の改善をして「評価して欲しい」などと言ってるかもしれない。

そういうのが営業だと最悪で、こちらの企業が何をしていて、どういう課題を抱えているのかなんてのには全然関係なく、自社製品の話ばかりいきなり話し出す。そんなの海外に行ったら全然太刀打ち出来ないんだけどなと思いながら、仕方なく話を聞くという感じだ。

日本の大手企業は有名大卒の「そこそこの人達ばかり」になってしまったので、出てくる製品やサービスも全然冴えない「そこそこのもの」ばかりになっている。

という感じで、モノづくり日本はもうダメなのかと思っていたが、実際には中小企業が頑張っている。すごくいいものを作ってる会社も多いので、そういう企業を後方支援する仕組みを今すぐ国は作らないといけないのではと思う。

今の時代は、大手企業が跋扈していた世の中から価値のコペルニクス的転換が必要な時代にさしかかっているような気がする。

日本をどう変革して行くのか、その一点を考えたときに、中小企業同士で連携して高付加価値製品を作って販売できるルートを確立していくべきだと思う。そういった会社が集まって、地域の中で死ぬまで働ける環境を作っていくべきだし、人として生きてきた以上死ぬまで社会に貢献するべきなんじゃないだろうか?

最近、カミさんが、近所の醤油屋さんで働き出した。自転車で5分ほどのところにある家内工業的な会社だ。家族的経営というのか、少人数でやっているのだが、今は「塩麹ブーム」に乗って非常に調子が良い会社だ。インターネット販売もやっており、こういう地域の中の会社でも全国区になることができる時代でもある。地域の中で働くと、働いている姿を子どもにも見せられるし、非常に良いのではないかと思う。満員電車に揺られて住んでるところから遠くの「器だけ立派な会社」に行ったって何ほどの意味があるのだろうか…。

「生きている=働いている」ということだと僕は思ってる。働いていない人は死んでいるのだ。そこそこお金ができたら悠々自適の生活を…などと思って、本当に悠々自適になってしまったら我慢できなくなるはず。日々猛烈に働いて、時々休みがあるから、その休暇が楽しいのであって、毎日が日曜日だと面白いはずはないのである。人間死ぬまで働くべきであって、働けなくなったら、命をむやみに長引かせても意味がないと思う。

大手企業の人たちは定年になり、そこそこ高い企業年金を厚生年金以外にもらい、そこそこ余裕のある老後を過ごすことになる…。でも、それが生きる道なのか?何か意味のある人生なのだろうか?社会に何か役に立つ老後なのだろうか…?

今の日本は、三島由紀夫が心配していたように「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」という感じになってきている。

自分の人生を生きるために今こそ「そこそこの人生」を降りて、強烈に自分を生ききる、自分の面白いと思えることを仕事にし、働き続ける人生に変えていかねばならないのではないだろうか…。
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