プレゼンは聴衆へのプレゼント

ITの情報収集のためにベンダー主催のセミナーによく参加するのだが、「ああ、来て良かった〜。」と思えるプレゼンに出会えたことがほとんどない。

プレゼンというのは聴きに来ている人にプレゼントを贈るという意味である。

関西の人が「つまらないものですが…」とか言って贈り物を手渡す習慣も無いではないが、言葉のプレゼンでそれをやられるともう全く話にならない。「じゃぁ、喋るなよ」と言いたくなる。

スピーチの中で「まだ完全には完成していませんが…」とか「まだ事例はありませんが…」などいらんことを喋る場合もあり、そんな製品を売るなよと思うこともしばしばある。

もっとひどいのでは「時間があまりありませんが…」とか、「準備があまり出来てませんが…」とかなんか言い訳を言い始める場合もあり「なにそれ?」と思うこともある。

スティーブジョブズのプレゼンが感動するのは、ジョブズ自身が心底自社製品に惚れていて、好きでたまらなくて、「どうこれ、すごいでしょう?」という感情がビンビンに伝わってくるからだと思う。

ベンダーのプレゼンでは、見た目も元気がなく、俯き加減で、パソコンに向かって喋る人が多いが、それでは全く話にならない。

あと、声のトーンもボソボソと同じ調子で喋る人も多いが、まるでお経である。昼過ぎのセミナーではどうやっても睡魔に打ち勝てなくなる。

メラービアンの法則というのがあるが、「外見 55%、態度・話し方38%、話の内容7% 」というものだ。ことプレゼンに関しては日本だからというわけではなく、何処の国も同じ事情のようだ。「話の内容」よりも「見た目」が重要。表情、感情、声のトーンが大切。

ズーニンの法則というのもあって、これは「見た目の3秒、挨拶の30秒、会話の3分 」というものだ。ファーストインプレッションが大事だということである。第一印象でその後のスピーチの印象も変わってしまう。

落語でいう所の「マクラ」、つかみが大事だということだ。

あと、いろんなことを言おうとして、何がポイントなのかわからないプレゼンも多い。

落語はかなり長いが「オチ」は一つだけ。言いたいことは一つなのだ。聴衆は一度に多くのことを理解できない。ので、最も言いたいことを一つに絞るのが効果的だ。

と、長々と書いたが、ちょっとした心構えで、スピーチも大きく変わる。

製品の紹介であれば、その製品に惚れ込んで絶対オススメ!という感情を聴衆に伝えなければいけない。それがないのなら人を呼んではいけない。

なんか、偉そうなことを書いたけど、僕も含めて、講演の際にはお客様に「ここに来て、良かった〜」と思えるプレゼントを贈るようにしたいと思う。

仕事のやり方 | comments(0) | trackbacks(0)

何をやりたいのかをはっきりさせることが大切

昨日、システム構築の際に、なまじシステムをかじったことのある人がユーザーにいるとやりにくいという話を書いたが、今日はその続編。

システム構築で一番失敗するのがユーザー部門が「何をやりたいのか」でなくて「どんなシステムを作りたいか」という事を言ってきた場合だ。

まず、システムありきになっているケースの場合、ツールの良し悪しばかりに気を取られて、肝心の何をやりたいかが見えて来ない場合が多い。

システムが出来て、綺麗な画面が出来て「スゴイね」というところまでは良いのだが、そこで終わってしまって、「次の一手」がない。そもそも、何をやりたかったのかが不明確でシステムを作る事自体が目的になっていたからだ。

家を作る時には、家事動線を考えたり、座った時の視界などいろいろ住み心地を考えるはずなのに、システムの場合はなぜこういうことになるのか?

ITはあくまでツールであって、それをどう使いこなすかが大事。ビジネスモデルがあやふやな状態でシステム化だけを急ぐのは愚の骨頂である。

ユーザーはまずビジネスモデルをしっかりと作って、何をしたいのかをはっきりさせることが大事であって、それがないのならITを使う必要はないと思う。順序が逆なのだ。

これはしかしIT業界にも問題があって、今だと「クラウド」とか「タブレット」とかいうツールの話が先行してしまう。呆れたことに「まずは導入して考えてみましょう」とアホなことを言う人もいたりする。

「クラウド」も「タブレット」も日本人が考えたものではない。昔だったら少なくともそれらを日本人に合うようにカスタマイズして使い勝手のいい、信頼性の高い、高次元の商品にインスパイアして売るのが日本人ではなかったのか?

それもせずに、「まずは使ってみましょう」はない話だ。

とにかく、最近は技術先行で中身のない話が多い。政治でも形ばかりが先行してしまう。日本人の中身、心棒がなくなっている気がする。

外見や形、ツールに惑わされず、日本人として恥じない働き方、生き方をしていきたいものだと思う。
日記 | comments(0) | trackbacks(0)

IT部門の将来は建築家?

社内のシステム開発を行う時には、そのシステムの主管部署を決めて開発を行うが、そこにパソコンの妙に得意な人がいるととてもやりにくい。 

Excelなどのマクロできめ細かく作れるような人のことだ。なんでも簡単にできると思っているので、「なんでそんなに時間がかかるの?」とか「この機能は入れて欲しいな」ととにかく要望が多い。機能が豊富なのが良いと思っているのか必要以上の機能を実装しようとする。 それは実際に使うユーザーの要望を「聞き過ぎて」過剰な機能が必要だと思い込んでいるのだと思う。 

現場のユーザーの声を聞くのはとても大事なことだけど、聞いたことを「留め置く」というステップが大事だ。「留め置いた」中から本当に必要なものを取捨選択するのがIT部門の腕の見せ所だ。単純に要望を聞きすぎると、マニアックな一部の人だけが喜ぶシステムになることが多い。その他大多数のユーザにとっては使いづらくなることが多い。 

IT部門を入れずに勝手に作ったシステムっていうのを聞いたことがあるが、そういうシステムが使われなくなったり、メンテナンス不全に陥るのは、そのシステムにいらない機能が多すぎたり、枝葉末節に拘わりすぎてメンテナンスビリティを考えていないからだ。 

システム構築は「家づくり」に似ていると思う。素人が要求する「吹き抜けがイイなあ」とか「やっぱりここは高い天井で」とか「公園を借景にしたいから大きな窓がいるよ」とかをいちいち実現してあげたりすると、筋交いのない、柱の足りない強度不足の家だったり、リフォーム不能の家になってしまう。そんなのは法的にも問題があるので建築家はNOと言える。 

が、システムは結構無茶苦茶作っても、見かけ上動いたりするので始末が悪い。プログラムのコーディングが悪くても、仕様書がなくてもとりあえず動くのであればいま現在はユーザーは困らなかったりする。なので、経営陣からすれば「早くて安ければイイ」ということになってしまう。 家づくりだとこんな事にはならないが、ITでは往々にしてこんなことになってしまう。

システムについても、自分がずっと住む家と同じ感覚を持って欲しい。デザインは美しく、使っていて飽きないもの、時間が経つにつれて味わいが出てくるようなもの、そういうシステムを作っていきたいのだが、なかなか「そういうのがイイね」というユーザは現れない。

IT部門の将来をいろんな人達と議論しているが、僕は「建築家」的なイメージではないかと思っている。顧客の要望を聞きながらも、地震に強く、住む人の将来設計に合わせて変更可能で、住んでいて住み心地のイイ家を作る感じ…。

建築家には一級建築士という資格があるが、IT部門のコンサルタントにもそういう資格を作って、その人がかならず設計に参加しなければいけないようになればいいのになと思ったりする。

実は僕は大学に入った後、建築科に入り直そうと思ったことがある。なので建築については思い入れが強い。できれば今やっている仕事で昔なりたかった「建築家」になれればなと妄想するのだ…。
ITの話 | comments(0) | trackbacks(0)

新しい手帳は「ほぼ日手帳」

来年は「ほぼ日手帳」WEEKLY版を使うことにした。

今まではMOLESKINE手帳を使っていたのだけれど、震災以降、いろんなことがあって気力が低下してしまった。それまで一年続いていた日記が途切れてしまったこともあり、心機一転、手帳そのものを変更することにした。気持ちを入れ替えようと思ったのだ。

その「ほぼ日手帳」が明日の日付から始まる。明日は新しい人生を始める第一歩という感じ。

その前哨戦という形で1週間前からこのブログを毎日書くということも始めてみた。人間何か「きっかけ」をつくって変化させていかないと気持ちが乗らない。「形から入るのね?」と言われそうだが、こういう「型」を作るということで、誰かの歌みたいだけど「人生という名の長距離列車」のレールポイントを変えていくということが大切だと思う。

人生は面白くないことも多いのだけど、そういう面白くない人生を自分で面白くしていかなければなかなか状況は変わらない。会社に依存してしまうと定年になって自分を無くしてしまうのが目に見えている。自分の将来をちゃんとイメージしてそこに向かっていくようにしたいと思う。

そういう時にこそ手帳が役に立つと思う。

「手帳術」なる本を読んでみると、ほとんどがスケジュール管理の話に終始している。でも、整理とか管理とかは今やスマートフォンとPCがあればできてしまい、手帳の役割は低下している。今、紙の手帳に残された役割は、自分の「生き方」の確認という役割ではないかと思う。

僕は手帳の後ろに30年計画表というものを貼りつけている。40歳から70歳までのプラン表で、会社では何の仕事をやっているかとか資格は何をとるかとかこまごまと計画を立てている。42歳の頃に作ったのだが、意外にプラン通りになっている。仕事はもちろんのこと、習い事や趣味、旅行計画なんかも書いているのだけれど、ギターを始めたり、ダイビングをやってみたり、韓国、沖縄に旅行に行ったりと、ほぼ計画通りに進んでいる。来年は台湾に行くことになっている。

夢を実現するには、まず夢を具体的にビジュアルに「イメージ化」した方が良い。昨年は、「講演活動をしている自分」をイメージしていたのだが、ありがたい事に今年は10回以上も人前で話をする機会を頂いた。それが縁でいろいろな人とのつながりができたし、つい最近はダイヤモンド・オンラインの取材を受けたりすることもできた。

「思いは実現する」という言葉があるけれど、漫然と「こうだったらいいかな〜」程度に思っていてもなかなか実現できないのだが、具体的にイメージして「絶対これをやりたいんだ〜」と思い込むと意外に実現に近づいたりする。

先ほどの趣味とか旅行とかの話も、そのことを計画表に書いてイメージ化しているので、それに近いことが実現するのだと思う。ということは、今は到底無理だと思うような「大きな事」も具体的にイメージできれば、それに向けて奮闘努力するので、実現できてしまうものなのかもしれない。イメージ通りに全て行くのかというとそんなことはないが、まずは夢をイメージしないことには始まらない。

子どもの時にはいろんな夢があったのに、大人になると、日常生活の中に埋没してしまい、その志を忘れてしまう。

大きな夢に挑むことでオヤジだって成長するはず。

小椋佳の「歓送の歌」にある
  若いからじゃなくて、夢に挑むことで
  僕達に別れはないという、心通えば…
という一節の「若いからじゃなく、夢に挑む」という部分が好きだ。

まだまだ人生の半ば。やりたいことは山のようにある。それらを一つづつ実現していけるように具体的にイメージ化し、一歩一歩やり遂げていきたいと思う。
日記 | comments(0) | trackbacks(0)

京都紅葉狩りミニツアー

金曜日の午後半休をとって、某研究会のメンバーと京都に紅葉狩り散策ミニツアーに出かけた。京都駅伊勢丹10Fにある「ザ・キッチン・サルヴァトーレ・クオモ」に1時半に集合し、まずは腹ごしらえのランチを。

10Fから見渡す景色はとてもよく、目の前の京都タワーはこんな感じで見える。夜は夜景が綺麗なんだろうな…。
京都タワー
京都タワー posted by (C)midwave

ちなみに、この店に入る前に駅の屋上まであがってみましたが、京都駅の上はこんな感じで、昨日みたいに天気の良い日にはぼんやりと読書したりするのに良い感じでした。

さてさて、お料理ですが、このお店の一番のウリの「世界No.1評価」のピザを食べてみました。トマトたっぷりでチーズとほどよくマッチしていて、それでいて味がさっぱりしているおいしいピザ「D.O.C.(ドック)」をいただきました。
このピザとは別にビュッフェスタイルでサラダとか惣菜とかスープとかを自由にチョイスできるので、もうとにかくお腹がいっぱいでした。もちろんデザートもついていて、昼から超ハイカロリーでした。

腹ごしらえが済んだので、今度は消化を促すため、いざ散策へ。

まずは地下鉄で蹴上まで移動。南禅寺経由で永観堂まで歩くというコース。
蹴上から南禅寺に向かう小道の脇はかなり紅葉が進んでおり、今が見頃という感じ。

境内もかなり紅葉が進んでいるものの、まだ緑の木もちらほら。
それにしても平日なのにかなりの人が歩いていました。

南禅寺を通り過ぎ、今回の目的の永観堂へ向かう。

永観堂はもっと人が多く。駐車場は観光バスでごったがえしていて大変でした。あとで知りましたが、京都の紅葉といえば「永観堂」っていうくらい有名なところなんですね。

紅葉は見頃ではありますが、真っ赤な紅葉が落ちている状態も美しいようなのであと10日後くらいに来ても面白いのではないかと思います。

現在永観堂寺宝展をやっており、ご本尊の「みかえり阿弥陀如来」を見ることができるし、阿弥陀如来来迎図や千手観音二十八部衆像などの重要文化財の実物を間近にみることができた。

阿弥陀堂は5年がかりの彩色修復が終わったそうで極彩色になっていました。また、お坊さんの法話もあり、なかなか永観堂よかったです。
あと、境内の中の池の周りはホントに美しく、こんな感じ。

もう少し接近して撮影するとこんな感じ↓(Instagram連携の写真です)

境内の少し先には茶店があり、ここも良い感じの紅葉です。


大満足の「永観堂」を後に、ねねの道とよばれる「高台寺」の方面に向かっていたが、あたりがすっかり暗くなってきたので、知恩院の門のライトアップを見に行こうということで、そのままかなりの距離をてくてく移動。知恩院の門につくと、はるか遠くに「華頂山」と書かれた門が燦然と輝いておりました。

今年は「法然上人800年大遠忌」(50年、100年ごとに行われるらしい)の法要のためすごいイベントになっており、写真では確認できないですが、夜間ライトアップを見るためにこの門の右側に信じられないくらいの長蛇の列がずずずーーと続いておりました。

なんだか全然景気が悪化しているようには見えない日本。むしろめっちゃ景気がいいのではないかとこうやって観光地に来ると肌で感じられます。


ということで、すっかり夜になったので散策も終了。午後3時半からのミニツアーは万歩計で見ると合計1万1千歩でした。まあまあですね。

それにしても昼に食べ過ぎたので、とてもじゃないが夜は無理!って思ってたのですが、ご覧のようなおぼろ豆腐の湯豆腐など豆腐料理のコースということで、意外や意外お腹にいくらでも入るし、美味しくいただけました。生麩入のこの湯豆腐の他、各種豆腐料理をいただき、デザートも豆乳ジェラートと豆腐づくしのお店「豆水楼」祇園店。あ〜美味しかった。

もちろん、この旅はこれで終わるはずもなく、2次会、3次会と宴は続き、京の夜は更けゆくのでありました。(大阪の調子で飲んじゃったよ。。)
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「一休和尚漫遊記」を読みながら思ったこと



本の整理をしていて、ずいぶん捨てたり売ったりしたが、なぜか捨てられないのがこの「一休和尚漫遊記」という文庫本。もうAmazonでも買えない絶版本。小学校の頃アニメの「一休さん」が流行ったこともあり、何気なく買ったものだと思う。

本の奥書をみると昭和51年4月発行の第3刷なので僕が小学校6年生の時のものだ。初版が同年の3月なので結構その当時は売れたのだと思う。

小学生の頃は漫画ばかり読んでて(今もだけど)あまり本を読まなかったんだけど、この本だけは何故か何度も何度も読み返して読んだ。

昨日、本棚を整理しながらこの本を手にとりパラパラとページを捲りながら気がついたのは、文章のほとんどが落語のように会話で成り立っているってことだ。

しかも会話の上に「一」とか「新」とか誰が喋っているのかが書かれているので、スピーディに読み進めることができる。

全編の調子が良く、そこここに一休さんが語った
「有漏地より無漏地へかえる一休み、雨降らば降れ、風吹かば吹け」とか
「門松は冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし」
などの有名な短歌が入っており、これも面白い。

よくよく最初のページを見ると「講談全集」を文庫本にしたと書いてある。ほう〜、「落語」じゃなくて「講談」だったのか、道理で調子がいい訳だ。

「時は元禄15年〜」ではじまる忠臣蔵の講談はちょっとだけ聞いたことがあるが、まともに聞いたことはない。

考えてみれば落語でさえも生で聞いたことはあんまりない。

テレビやインターネットでいろいろと見ることは出来るのだけど、やはり伝統芸能は生で見るべきだと思う。

そういえば、講談だけでなく浄瑠璃、歌舞伎、能など日本の伝統芸能を一度も生で見たことがない。

もう40代も後半に入っているのにこんな調子だ。いままで毎日毎日会社と家を往復して何をやってたんだろうと、ふと気付く。

これからはもっと見聞を広めなくちゃ…。

だからというわけでもないが、今日は午後半休を取って、秋の京都を散策する予定。今後も時々はこうやって休みを取って、ゆっくりと日本の名所を歩いたり、伝統芸能などを堪能したいなと思う。

まあ、何というか、日本全体にゆとりがなくなって来て、何かに取り憑かれたようにせかせかとしているような気もする。

伝統芸能も観る人が少なくなれば、廃れてしまう。

変化ばかりを追い求める風潮の中だけれど、一歩立ち止まって日本の伝統や文化を顧みなくちゃなと思うのだ。
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ビッグデータの話から思ったこと

最近「ビッグデータ」なる言葉を良く聞く。

大きなデータ?ま、大きな会社は大きいわなぁ…。くらいに感じていたが、どうもそうではなく、Web上にある様々なデータ(社内データだけでなくFacebook、TwitterなどのSNSとか、Blog情報なども含めて)を統合的に管理しようということらしい。

データの管理は大昔から言われて来ていて、各社ともDWHとして整理しているはずなんだけど、これが使いにくいし、必要なデータが出て来ないという問題が生じている上に、今は社外のデータも活用しようではないかという議論に発展している。

しかしながら、IT側からの提案はこうやっていつも仕組みやツールから入ってしまう。それがBIであったり、ERPであったり、今はHadoopなのである。

セミナーに行ってもよくわからない。自社とどう関係があるのかも想像しにくい。長年ITをやっている僕でさえわかりにくいのだから、経営者にとってはもっとわからないはずだ。

流行を追い求めることを先行するのではなく、何が今自社に求められているのか?ということを最初に考えなければいけないと思う。

顧客が何を望んでいるのかということを深く追求せずして、うわべの形としてのITを整備しようとする傾向が強い。こういうのは15年前くらいから顕著だ。短期的な利益を追い求めるので、先ず形から入ろうとする。ステークホルダーがどうのこうのと言い始めた頃からだと思う。

BIの見える化が良い例だ。見えることは大事なんだけど、そのツールを作ることが自己目的化してしまい、それを見てから次の一手が打てない。画面に現れているのは過去の結果であり、取り返しのつかない悲しい状況が見えているだけである。それを漫然と眺めていても次の一手はその画面からは出て来ない。

昔、計量経済学を専攻していて、未来の予測を一生懸命試みたが、担当の教授曰く「未来を予測するのは不可能です。」と…。過去のデータから今の現状をあてはめて変動要因を炙り出すことは出来るものの、実際の未来には不確定な要因が多過ぎて予測不可能なのである。

だから画面から出てきた結果を見て、どう判断するかは経営者の力量にかかっている。そういう次の一手をちゃんと決めてからITを活用しないといけない。

目的があやふやだから変なことになるのだ。

マーケティングツールなども同様で、それを整備し、地図上にもっともらしい色や数値を出すことは可能だ。が、それで安心してしまい、コンピュータを信頼し、現場に足を運んで自分の目で見、自分の耳で聞き、五感で感じるいうことを忘れてしまっては本末転倒である。

仕組みやツールではなく、何が目的なのかをしっかりと腹に落としてからITを活用しないとITが生きないし、そもそも売上も伸びず、社会の為にもならない。

難しいものに飛びついてその活用に一生懸命になるさまは、新しいゲームに飛びついてその攻略法をマスターしようとする小学生みたいにみえる。

ゲームばかりしていても、一向に教養は身につかないのだ。

世間の流れに惑わされず、まずしっかりと自分の立ち位置を決め、やるべき手はちゃんと打った上で、子供が一日一時間と決めてゲームをやるように、新しいことばかりに埋没せずに、余力を持ちながらの経営をしないといけないのではないだろうかと思う。

日記 | comments(0) | trackbacks(0)

「株式会社という病」

「評価」制度に非常に違和感を感じている。

「成果主義」に「評価」というものはつきものというか、評価しなければ成果主義にはならないのだろうが、面談をしたり、評価をしたりというのを勤務時間にしているのでは時間がもったいない。その時間を生産的な仕事に使うほうだよっぽど効率が良いと思う。だいたい悪い評価をされた日にはいくら面談されても腹が立つばかりで、訳のわからない理由を並べ立てられた所で評価している人の主観が入っているので「ま、あなたはそう思ってるかもしれんけど、世間的に見たらあなたのほうがおかしいんちゃうか?」と思うことになる。

全く仕事をしない人に対して罰則規定を設けるのはまあ仕方がないかなとは思うが、その人なりに一生懸命やってる場合に、ダメ出しをして悪い評価をつけたり、降格、降給扱いなどにしていいものなのだろうか?

世の中にはいろんな人がいて成り立っているし、仕事の良し悪しはそれを評価する人の主観が入った極めて相対的なものである。人には得手不得手があるし、目立つ目立たないというのはあるが、そんないい加減なもので評価をすることにどれほどの意味があるのだろうか?

水戸黄門御一行の「うっかり八兵衛」を誰が「君は評価「E」だよ」などと評価するだろうか?うっかり八兵衛がいて、由美かおるがいて、風車の弥七がいるから、和やかにあの集団は旅を続けられるのだ。助さん格さんみたいなのだけで構成されていたらちっとも面白くないし、そもそも番組として成り立たない。「七人の侍」でも三船敏郎扮する菊千代は侍としてはダメなんだけど、彼がいたから場が和み、農民たちの心が動いたのだ。

いろんなキャラクターの人たちで構成されていないと組織はガタガタになる。

同質的な人間だけで構成されていると誤った方向に走ってしまうことになりかねない。オウム真理教がまさしくそれで、洗脳によって同じ思考をした信者を作ったことによって、あんな事件にまでなった。ちょっと考えればわかることが組織の方向に従う人間ばかりになると異常な事態が発生するのだ。組織の中には場を和まる人間も必要だし、変な方向に向かっているのに対して毅然と反対意見を出す人がいなければいけないのだ。

そんなことあんなことをいろいろ考えているとやっぱり「評価」などできっこないではないか。人間的に深みも幅もなにもない人達が「あいつはイイとか、あいつはダメ」とか言ってるのは想像するだけでおかしな話だ。「オマエが言えるのか?」と。

はっきり言って、日本の「成果主義」は破綻している。もうこんな変な制度はやめるべきだ…。

と、こんなことをつらつら考えて本屋に入ったところ、この「株式会社という病」という本が目に飛び込んできた。読みすすめていくと、なるほどと思えることばかり。

この本の中では「成果主義」のことには言及していないが、もっと強烈にそもそも「株式会社」の構造がもともと「金銭欲」を追求する「病の構造」になっているのだとしている。

金銭フェチの彼(会社)をこう定義している「お金が大好きで、お金を儲けることにしか興味がなく、無駄な出費はしない。利益にならない友人とは付き合わず、責任は極力他人に押し付ける。他人に厳しく、相手を押しのけてでも自分を主張する人」人間だったら絶対に付き合いたくないようなそんな彼が会社の本当の姿なのだと言っている。

そして、社会が発展していけば行くほど、その「病の性格」が浮き彫りになり、(本書の中では「光を集める生活は/それだけ深い闇をつくり出すだろう」という2行詩で表現している)会社と個人の関係がおかしくなっていくのだ。光が強いほど闇は深まる。ライブドア、不二家、雪印などの不祥事が起こり始めたのもその流れで、いまでもオリンパス、大王製紙など会社の闇は増えていくばかりだ。

筆者はこの会社という構造そのものが「病」であることを自覚し、そういう病んだものと付き合う「付き合い方」を考える事そういう「知的な自覚」が大事なのではないかと主張する。なるほどなと思った。

しかし、成果主義についてはその論点では説明しきれない。会社の構造が唯一「利益至上主義」だけであったとしても、それであれば、従業員をもっと仕事に向きあえるようにするべきであって、やる気を失わせるようなことをするのはそもそもおかしい。

おかしいおかしいと言っててもはじまらないが、結局、個人の目的と会社の目的は一致しないのだから、距離をおいて付き合うしかないのだろう。がしかし、一日のうちの大部分を過ごすのが会社でもあるので、これがいただけない。距離を置こうにも置けないという事情がある。

が、会社にも色々あって、最近付き合っているWebサイト制作会社などは、なんだか和気あいあいとしていて、仕事をしているのが楽しそうだ。戦後の会社もそうだったのかもしれないが、創業当初は若い人ばかりなのでそれほど格差もなくフラットな構造をしているのが良いのかも知れない。ほとんどの社員がFacebookで個人情報をオープンにしているし、上司とか部下とかでなく(肩書きはあるのだけれど)友達同士の感覚で切磋琢磨している。

彼らが活き活きしているのは、社員全員がWebの開発スキルを保有しているということだからなのではないかと思う。ある程度修行すれば起業できるノウハウを持っているということだ。これは昔の商家が暖簾分けをする形に似ている。会社として集まっても、いずれどこかで起業できるのだというライフプランを持っていれれば、今この時に集中できるのかもしれない。

大きな企業に所属している人たちは、自分で会社を起こすだけのスキルを習得しにくい。大きな組織では組織の中の一部の仕事しか担当できないからだ。だから会社と距離を置くことも出来ず、その会社に居続けなければいけないという状況になっている。そんな状態の中に「成果主義」「評価」などというものを取り入れるので、確たるスキルもない無免許状態の上司は、部下にスゴイのが現れると戦々恐々としてしまう。まあしかし、そんな人達ばかりで構成された会社はいずれ淘汰されるのだろう。

だからなのか最近大企業の人たちと話をしていると「元気がない」と感じるのかもしれない。自分で「生きる力」を持つことが難しい閉塞的な状況下にあるのでパワーを感じられないのだろうか…。

会社と距離を置くためにも、会社への過度の依存をやめなければならないと思う。依存しすぎるのですべてが会社の論理になってしまい、つぶしが効かなくなってしまう。

ここまで世の中が変わってしまったのであれば、いつまでも会社にしがみついて生きることはできないと諦めたほうが気が楽だ。依存し続けるそんな人生では心許無いばかりだ。

今からでも遅くはないはず。人生二度なしだ。コツコツとノウハウを身につけて、働く仲間たちが活き活きと働くことができる前述のWEB制作会社のような組織を作っていきたいものだと思う。
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