「教育勅語」を読みなおしてみた

「修身」が実は非常にすぐれた道徳教育の教科書であったことを現代の先生方が知らないように、「教育勅語」もその内容についてはあまり知られていない。国民道徳協会というところが教育勅語を現代文に訳している(→明治神宮HP)が、ちょっと意訳しすぎなので、原文に近い訳を試みたので、以下掲載したい。
私(明治天皇)が強く思うのは、(天照大神からはじまり、神武、綏靖…と続く)歴代の天皇が日本国をつくっていくにあたり、理想的な社会として、樹木を植えるように広く日本社会に根付かせようとした道徳は実に奥深いものであり、慈しみのあついものである。 

国民全体がよく君に忠義を尽くし、父母に孝行をはげみ、国民全体が心を一つにして、神代から現代に至るまでそういう美風を作り上げてきたのは、日本の国柄の最も優れた美しい点であって、教育の一番大切な根本は、ここにあるのである。 

 国民のみなさん、

子は父母に孝行をつくし、(1:孝行)  
兄弟、姉妹は互いに仲良く、(2:友愛)  
夫婦は互いに睦まじく、(3:夫婦ノ和)  
友人は互いに信じ合い、(4:朋友ノ信)  
他人を立て、己は謙虚にし、(5:謙遜)  
世の中の人々に平等に接し、(6:博愛)  
学問にはげみ、職業を習って身につけ、(7:修学習業)  
そうして、智徳を養って、才能を伸ばし、(8:智能啓発)  
道徳の高い、立派な人格を形成し、(9:徳器成就)  
すすんで、世の中の人のためになることを行い、社会の利益になる仕事を開発し、(10:公益世務)  
常に、憲法を重んじ、法律を守り、(11:遵法)  
もしひとたび、差し迫ったことがおこれば義勇を持って国のために一身を捧げ、(12:義勇)

そうして、天地が永遠に続くように、限りなく栄えてゆく日本国の運命を助けるべきである。

これらの教えをよく守ることは、単に我が国の立派な国民であるばかりでなく、 先祖から伝え続けられてきた日本人の美風がいかに素晴らしいかを十分にあきらかにすることができるのです。 この勅語で述べられている道徳は祖先から受け継がれてきた教えであって、われわれも皆ひとしく守っていくべきものである。

教育勅語の教えは昔も今もいつの時代も間違いのないことであり、日本国内だけでなく、世界中のどこの国でも遵守すべき道であるから、みなさん、ともにこの勅語の教訓をよく守り、実行して立派な日本人になることを深く希望します。

 御名御璽

どうだろうか? 上記の( )書きで書いた教育勅語の十二徳のうち、1〜11までは非常に良い内容ではないだろうか?

教育勅語が嫌がられているのは最後の「12:義勇」なのだろうが、しかしながら、よく考えてみれば自国を守らないことを教える国が一体どこにあるだろうか? 他国に侵略されてもいいということはないのである。

 ということで、この教育勅語、もう一度現代語訳に変換して、道徳教育の基本として復活させても良いと思うのだがいかがなものだろうか…?

教育 | comments(0) | trackbacks(0)

「舟を編む」

評価:
三浦 しをん
光文社

今年の本屋大賞第一位の三浦しをん作「舟を編む」を読んだ。

辞書編纂の裏側をドラマ仕立てで進めていくストーリーがすごく面白かった。キャラの設定が非常にすぐれていて、一気に読める本だ。

辞書の話といえば、有名なのが15年ほど前に出版された赤瀬川原平の「新解さんの謎」である。こちらは三省堂「新明解国語辞典」のそれぞれの見出し語の説明にものすごい編集者の想いが詰まっていることを解き明かした本でこれを最初読んだ時はぶっ飛んだ。

有名な「恋愛」の語句説明であるが、手元の第4版の辞書を見てみると、

  •  れんあい【恋愛】ーする 特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。「ー結婚・ー関係」

え〜これが辞書?っていう感じですが、辞書がこれほど身近に感じたことはなかったです。あまりに面白いので当時職場のいろんな人に「新明解国語辞典」を宣伝してまわったのですが、おかげで女の子たちからは変な目で見られました。ま、最近の第7版ではかなり内容が変わっているとのことで、また買おうかなと思っています。

それにしても、辞書編纂はものすごく根気のいる仕事だと思う。言葉の意味をそれこそ5万とか6万というとてつもない数の言葉を一つづつ検証していくという仕事だ。『舟を編む』の中でも「用例採集カード」というものに事あるごとにメモする主人公や監修者の姿が描かれている。

途中、主人公の奥さんが、主人公と付きあう中で「言葉の重要性に気づいた」と言うシーンがあるのだが、この「言葉の重要性」というのがこの本の底流を流れている、著者が言いたかったことなのでは、と感じた。

「言葉」がなければ人間は感情を持てないし、思考もできない、あらゆることは「言葉」があってはじめてできることで、人間が人間であるのも「言葉」があるからだ。聖書に「始めに言葉ありき」という有名なフレーズがあるが、言葉がなければ神の意思も伝えられないし、理解できない。言葉=神であるといってもよいのかもしれない。

そういう意味で、辞書編纂の仕事は地道で時間がかかるものなのだけれど、誇り高き仕事なのだなと思える。

また、この小説に出てくる辞書編纂作業は、あくまで製本する紙の辞書を取り上げている。製紙会社社員のその辞書のためだけの特別な紙質へのチャレンジなども描かれており、究極の技術にこだわる日本人の心意気も感じられる内容になっている。

電子辞書全盛の時代に、ふと感じたのは、こういう技に対するこだわりが最近なくなってきているのではないかという危惧だ。とことん良い辞書を作るための紙へのこだわり、製本へのこだわり、印刷技術へのこだわり、装丁へのこだわり、そういったものが最近どんどん劣化しているような気がする。

僕自身社内でITを担当しながらも、ここ最近の「なんでもIT化」、「なんでも効率化」、とか「とにかく経費削減」というような風潮にはものすごい抵抗を感じてしまう。

本当にIT化が正しいことなんだろうか?

アナログな「人と人とのつながり」は大切じゃないんだろうか?とか、昭和時代のように職場では先輩を敬い、先輩は後輩をいたわり、和気藹々と仕事をすることのほうが大事なんじゃないか?と日々自問自答している。

それは決して「昭和時代に戻りたい」というノスタルジックな気持ちではなく、最近の日本はなんだかIT化、効率化と言い過ぎで、肝心なことを忘れてきたのではないかと思うのだ。

辞書編纂に人生を傾ける生き方もいいなあ、と読みながら、ふとそんなことを感じたのであります。

(追伸:この本のカバーを取り除いた本の装丁、めちゃ凝ってます。漫画本があるのかと思ってしまいました。)

読書 | comments(1) | trackbacks(1)

式年遷宮とシステム開発

システムの再構築案件でいつも思うのは、作り変える必然性があるかどうかということだ。

改良を加えてきたシステムで十分仕事は回るし、特に困ることもおこらない。

物凄く性能が悪いとか、時々止まってしまうような「何これ?」っていう誰が見てもダメなシステムでない限り、今のシステムにそのまま改良を加えて行くということでいいんじゃないかと思ったりする。

家でいうとリフォームをしていくというのに似ている。住みやすいように改良を加えて行く方が理にかなっているような気がする。ビフォアーアフターのようにほとんど作り変えてしまうリフォームもあるが、それでも全く作り変えるわけではない。

が、20年毎に完全に作り変えている建物がある。

伊勢神宮のことだ。伊勢神宮の「式年遷宮」は今ある外宮、内宮のそれぞれ隣地に全く同様の宮を20年に一度一から作り直すのだそうだ。来年は62回目の式年遷宮が完了する年だが今回の再構築の為になんと8年も前からその準備をはじめている。

清浄を保つ為ということもあるが、建築技術者の技の継承が一番の理由でもある。20年に一度だと一生のうちに2回は経験出来、技術の承継が出来るのらしい。

先日、とある会合で、「システムの再構築も「式年遷宮」ととらえれば必要ですね。」という話になった。

システムについては、20年くらい前までは事務処理効率の向上をテーマに10年というよりは5年に一度のペースで作り変えてきたが、ここ最近は、業務改善案件はほとんどやり尽くしているため、冒頭に書いたように再構築の意義はなくなっている現状がある。

しかし、「式年遷宮」を念頭に考えると、技の継承という意味では、やはり10年に一度は大規模なリニューアルをするべきではないかと感じてきた。コストがかかるとか、費用対効果が出ないとか言われてしまうとそうかもしれないが、今やシステムは会社の心臓あるいは脳にもなっており、その心臓や脳の部位を取り替える技術者を養成していかないことには、会社の存続も危うくなるのではないだろうか。

冒頭でシステム再構築の必然性に疑問を投げかけたのだが、伊勢神宮の「式年遷宮」の意義を知り、社内にシステムのプロを養成せずアウトソーシングに頼る流れを考えると、やはり、社内での技術者育成、および会社の存続のためにも、基盤システムの定期的なリニューアルは必要なことだと思う。

仕事のやり方 | comments(0) | trackbacks(0)

今日から新学期

今日から新学期。
しばらく更新をサボっていたこのブログも再開することにしよう。

日常についてはFacebookにつぶやきすぎているので、非日常的なことも織り交ぜて書いて行くことにしていきたい。

今年に入って、仕事の状況が変わりつつあり、その変化についていけなかったのがブログ更新ができなくなってきた一つの原因でもある。

というのは、なぜか海外のシステムについても担当しなければならなくなったからだ。不得意な英語をまたやらなくちゃいけないのが憂鬱で困っていた、というか現実逃避していた。

が、いよいよ逃れられなくなったようなので、ここは腹を括って英語の勉強をするぞと決めたら、ちょっと気持ちが落ち着いてきたという感じなのであります。

おりしも、親戚の中学生が受動態の過去完了ってどう書くの?とか聞いてきて、「受動態って何だっけ?」ってそもそもいい加減な勉強しかしていない学生時代の弱点をついてきて困っているのだ。

受動態ということで、その子から送られてきた"I had given smile by you."は間違いで、"I was given smile by you."だろうとは思ったが自信が持てない。この言い方をアメリカ人に言う気になれない。そもそも日本語でも「あなたに微笑みを贈られた」なんて、そういう変な言い方はしないんじゃないかという想いが強くいきなり英語学習の出鼻をくじかれた感じだ。中学英語ってなんなのだろう。そういうのばかり勉強するのでますます話す気になれなくなるんじゃないかと思った。日常使う表現を訓練しないと全く意味がない。

英語の例文のストックをたくさん持っていないと自信もって喋れないなと…。それにしてもこんな感じで、高校受験生レベルから英語のやり直しをせねばと思っている次第です。五十の手習いだけどね。

実は、先日、高校の同級生の娘さんが韓国に留学するという話を聞いて、かなり刺激を受けたというのも語学を勉強しようと思った一つのきっかけ。娘さんは大学2年生、つまりたった1年の韓国語の勉強でいきなり留学出来るレベルに到達したということだ。K-Popとかが好きだというのがあるのだとしてもすごい能力である。頑張れば人間いくらでも才能開発が出来るなと思った。

ということで、今日から僕も語学の新学期に突入することにしたい。英語と韓国語ね。

日記 | comments(0) | trackbacks(0)
1