気がかりな若い人達の考え方

成果主義が蔓延してからというもの日本の低成長が止まらないが、特に若い人達の考え方が気がかりだ。

昨年くらいから平成生まれの人たちが各企業に入社しているが、彼らは物心ついた時から一度も日本の経済成長を経験したことのない人達だ。

小学校の頃には、親が「成果主義」の嵐にさらされ、勝ち組負け組だのと言われ、肩を落としながら会社に行っているのを見て育ってきている。子どもは親の鏡である。親がそういう状況なので、彼らは小学校時代から「同調圧力」が強く、出る杭にならないように一生懸命自分を抑え、他の人と同じような服を着、 同じようなゲームをし、同じような塾に通い、同じような大学に行き、同じような会社に、やはり同じような服を着て通うのである。

突出したことを嫌うため、あまり自己主張はしないし、飲みにも行かない。

しかしながら、評価には異常に敏感である。いろいろな話をしてもあまり反応しないのに、上司に気に入ってもらうにはどうするかというような話には反応する。

しっかり「成果主義」のフレームワークに沿って生きている。

何なのだろうか?この状況は…。少なくとも「成果主義」を早く除去しないことには日本企業の成長はないと断言できる。

それにしても、世の中はグローバルな時代である。一度も海外に出ず、英語も喋れず、中国語も韓国語ももちろん、日本語だって怪しい感じの人間が、日本企業の小さな「成果」だけに固執して生きていたって意味がないのである。

僕らの時代には海外留学できる人は極僅かだった。が、今の時代は円高もあるし行こうと思えば行ける時代だ。僕の子どもが行きたいといえば絶対に行かすだろう。がしかし、留学人口は年々減少し、今やアメリカの大学にはアジア系と言えば中国人や韓国人ばかりである。日本は鎖国に入ろうとしているのかと言われそうな勢いである。

それなのに、彼らは会社の中の小さな評価には異常に固執する。

この絶望的な風潮は親の考え方の影響が大きいと思う。日本は神武天皇即位を歴史の始まりとすれば2672年もの長い歴史があるが、実際の具体的な歴史は家庭で作られるのだ。親から子どもへ、しっかりと「生き方」や「道徳」「礼儀」を継承していかねばならないのだが、戦後のグダグダの中で段々とその伝統的な継承がなされなくなってきているのではないだろうか?と思う。

日本という国の形は各家庭が築いていくものであるので、そういう国民教育がなされなくなれば、子どもは教科書や本やそういったもので間接的に身につけなければいけない。また、家庭が行うべきことを学校が代替するのはほとんど不可能なのであるが、今は家庭がおかしくなっているから、そうせざるを得なくなってきている。橋下元大阪府知事が教育現場で国旗掲揚国歌斉唱時の起立まで条例化しなければいけなくなってきたのは、そういう家庭の事情も影響があるのかもしれない。おかしな先生がいてもそれをおかしいと言える親が減ってきたのだ。

しかしながら、日本人としての挟持を教えずに、「上司に気に入ってもらうには」とか、「出る杭にならないようにみんなの真似をするのだよ」などと親が教えるようではこの国は早晩潰れるであろう。

口に出さないまでも、そういう行動を親はしているのではないだろうか?

このままでは非常にあぶない。もっと若者は積極的に生きていかねばいけない。「同調圧力」を排除し、「もっと出る杭になれ」と我々がけしかけなければいけない。出すぎて叩かれても、それで成長していくのだ。成長過程の失敗は必要な失敗である。失敗を積み重ねて人は成長していく。「失敗は成功のもと」というではないか。

ところが、「成果主義」がそこにブレーキをかける。成果主義では失敗は減点の対象である。失敗して減点されることを避けるために、減点対象にならないレベルの小さな目標を立てて頑張ったふりをするのだ。そんなくだらないことなのだ「成果主義」とは。

もう一刻も早く日本企業全てからこの成果主義を排除しなければいけない。

そういうくだらない仕組みを排除すると同時に、若者は積極的に海外に行くべきだと思う。外から見れば、日本をもう一度再認識できる。とてつもなく良い国なのだということを実感し、この国を潰さないようにするにはどうしたらよいのかということを自分の頭で考え、手を動かし、足で行動しなくてはいけない。

僕自身もこれからは考え方をグローバル思考に変革させ、日本の良い部分を積極的に海外に活かす努力をしたいと思う。積極的に生きていれば、きっと良い事が起こると思う。

頑張っていこう。。。
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何が言いたいのかわからない講演会

日本経済の今後の展望が聞けると言うことで、とある講演会に行ってきた。

まあ、しかし、さっぱりわからなかった。よくここまでわかりにくく喋れるものだと感心するくらい全然わからなかった。

オチもなく、結局、日本がどうなるのかという標題の「展望」もないまま終わってしまった。

このブログで何回も書いているが「プレゼンは聴衆へのプレゼント」である。貰ってうれしいものを持って帰ってもらうことができないプレゼンなんてプレゼンではないと思う。

周りを見渡しても寝ている人ばかりだった。「眠り」をプレゼントしてくれたのかもしれないが、それにしても昼寝なので15分程度で十分だ。目が覚めてもまだ、わけのわからないことを喋っていた。

統計資料はたくさんあって、例えば、「外需が増えて、生産が増えている」というようなことを言ってたが、それは「完成品」なのか「部品」なのかという視点が欠けていた。「完成品」でなければ国力という観点では意味がない。

そんな感じで、なにか重要な要因が抜けた資料を多く使っていた。僕も大学時代統計論を専攻していたが、一つ重要なパラメータを落とすと全く違う結果になるのである。学者の中にはそういう統計の性質を駆使し、こねくり回して自論を展開する人は多いが、数字をいじくったところで未来は見えないのである。

あと、話があちこちに飛ぶので、わかりにくかった。言いたいことがいっぱいあるからかもしれないが、話の背景知識など前提条件も揃っていない聴衆に対して話をするのだから、ちゃんとストーリー仕立てにして話を展開しないといけない。導入部分で聴衆をつかみ、今日言いたいことの流れを説明し、その流れに沿って重要なことを2つ3つに絞って話をし、感心したり、納得したり、感動したりする話をしたあと、最後にオチをつける。その話のところどころに「笑い」が入ると印象がぐんと違ってくる。まあ、そんなスーパーな講演は聞いたことがないが、それにしてもストーリーはきちんと持っておかないと話にならない。

講演終了後、懇親会があったが、さも分かったフリをする人が多かったのにはびっくりした。経済オンチは恥と思っているのかもしれないが、わからないことはわからないとはっきり言う方がいいと思う。わからない人が悪いのではなく、わからない説明をした人が問題なのだ。

それにしても、未来に向かって元気が出る話はないものなのだろうかねえ…。
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意思決定の問題点

最近会議ネタを何本かブログに書いたけれど、そもそもの違和感は「意思決定の方法」だと感じてきた。

ある案件を決定する際に誰が発案して、どうやって決定したのかということだ。

小さな会社の場合は社長が考えたことを自ら実行していけばいいし、社員が考えた案件でもすぐ近くに社長がいるので「社長、こういうのはどうでしょう?」と聞きやすい。

ところが10人、20人と人が増えていくに連れて意思決定の方法論が必要になってくる。

昔のムラの場合は、それぞれの世帯の代表者が集まる「寄り合い」という場で物事が決まった。議案を持ち込むのは誰でも良くて、その議案について、「そういうのは昔こうやったな…」とか、「今までやったことはないが、そういうことをすると縁起が良くなると聞いたことがあるのぉ…」とか皆の意見がなくなるまで何日も話し合うという形で決めていった。(詳しくは 宮本常一著「忘れられた日本人」を参照)

組織化された企業の場合、それぞれに専門部署があるので、これら専門部署間の調整が必要になる。中堅企業以上になれば、勝手に社長が決めたからと言ってそれを実行するということは出来なくなる。

大きくなった企業は企業そのものが人と同じ存在になるので、頭で考えたからと言って、手足が動かなければ前に進まない。

頭からの命令がおかしければ、手足はちゃんと動かないし、神経がなければ命令そのものが到達しない。まともに頭が機能しなければ、組織は壊死してしまう。

身体全体が調和を持たなければ上手く動けなくなるように会社も組織全体のコミニュケーションがとれていないと歪が生じてくる。

ここでいう頭は会社全体でいえば本社組織だし、現場で言えばリーダーや管理職と言われる人たちだ。

脳神経が複雑に絡み合っているように、部署間の調整が大事になる。脳の指令はどこか一点で指令しているのではなくてシナプスの関係性の結果、電気信号として指令が発生する。

指令は、いろいろな部署の調整結果「最善」と思われる結論を導き出していかなければいけない。発案は先ほどの村の寄り合いと同じで何処からでも良くて、専門部署間の調整が意思決定ということになる。

最近の民主党政権の問題点は発案が首相であり、専門部署間の調整なく勝手に決まっているという点だ。官庁間の調整がないため、国民にとって「最善」という結論に至らない。

政府だけでなく、会社の中でも似たようなことは起きてるのではないだろうか?

何かの決定の時に、専門家の意見がちゃんと反映されているのか?門外漢の人間が便利だからといって新しいものの導入をしたり、部署間の調整なく決定したりしていないだろうか?

小さい企業の意思決定が早いのは部署間の壁がないからだ。大きな会社の場合、部署ができると新しい仕事が発生し、他部署との壁が作られる。

壁を崩すのが身体で言うところの神経系統であり、つまりコミニュケーションである。

コミニュケーションが活発化すれば、上手く行くのだが、そう考えてみると、日本の場合は村の寄り合い的な場が必要で、とことん議論をし、お互い納得しあうということが大事なんではないかと思う。

コミニュケーションが余りとれてない人に命令されるようには体はできてないのである。

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「何を」使うかではなく、「何のために」使うのかをまず考えるべき

最近は「IT経営」というような言葉で代表されるように、何でもかんでも「IT」を使うという流れになってきている。

いろいろな会社が仕事に役立つ「ツール」を提供するので、経営としても何かしないと乗り遅れるのではないかと思って、そういう「ツール」を導入しようとする。

 バブル崩壊以降その流れが顕著で、90年代中頃から「ERP」を入れなければ乗り遅れると考えた企業が我先にと導入を始めたが、いずれも日本的な例外事項を盛り込もうとするのでアドオン(追加)開発が増えてしまい、一から作るシステムの何倍もの資金を投資しなければいけない状況になってしまった。

その後、90年代後半にはあろうことかシステム開発そのものを買うという「アウトソース」が全盛となり、どこの企業もこぞって業務をアウトソースしてしまったが、よかったのは最初の頃だけであり、結局自社内にノウハウが蓄積されず、アウトソース先も人が入れ替わってしまい、あったはずのノウハウがどこかに霧散してしまった会社も多い。

その後、Y2K、情報セキュリティ、コンプライアンス、内部統制等々、立て続けにイベントが発生し、それにまつわるツール類を買わなきゃ…。という状況が続いた。

で、昨年2011年頃からは「クラウド」と「タブレット」である。

もう、いい加減にそういう「流行」に振り回されるのはやめて、落ち着いて戦略を考えるべき時期に来ているのではないだろうか?

もちろんツール類が使えないと言っているわけではなく、良いものはどんどん使えばいいのだが、まず「ツール」ありきでは困るのだ。

「何」をするためにそのツールを導入するのか?という視点がかなり曖昧なケースが多い。とにかくツールを導入すると良い結果が訪れるという「幻想」を抱いているようである。

この業務に必要だから使うという視点はあっても、どうやって使うのかということがかなりいい加減なまま導入を決めている場合がある。「夢のツール」だったはずなのに、いざ、使ってみるとどうも使い勝手がおかしい。「ああ、なるほどこうやるのね」と思いながら使っても、思っていた結果にならない。「おかしいな、こうなるはずなのに?」と思っても、もうあとの祭りである。考えてみれば「一体何が必要だったんだろう?」ということになる。

何をしたかったのかが曖昧なままでは、結果がどういう状況が良いのかもわからなくなってしまう。

そういうのは個人でもよくある話である。みんなが持っている流行の「手帳」を手に入れたのは良いのだが「何をしたかったんだっけ?」ということは多い。手帳で人生を変えた人がいるのなら自分も変えようと思うのだが、人生の何を変えたいのかがはっきりしなければ結局何も変わるはずはない。「こういう人生にするのだ」という強い想いのある人は手帳がなくても変われるはずなのだ。他人の歩いてきた道を真似ても絶対に同じような経路は通れない。

世の中の成功事例というのはほとんどが自分には当てはまらないのである。自分が何をしたいのか、どう変えたいのかという強い意思がないことにはどうにもならない。

企業行動も同じで「こうしていくのだ」という強い意思と強烈でビジュアルな「着地点」を持たない状態では、いくら「ツール」を導入しても何も状況に変化は起きない。「ツール」を探し求めるのではなく、「何をどうするのか」というビジョンをはっきり具体的に持たなければいけないのだと思うのである。
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ファシリテーター不要論

3日連続で会議の話。

ファシリテーションっていうのが流行っているが、そもそも何なのかということでググッてみると面白いサイトが見つかった→ ファシリテーションにおけるファシリテーターの役割

そのサイトにダメな会議の例として次の5点をあげている。(解説は少し簡略化しました)

 1.参加者の目的や意識が統一されていない
  会議出席者の準備ができておらず、何の会議か何の議論かという前提が欠けた状態。
 2.人の意見を聞こうとしない人がいる
  反論ばかりする人がいたり、決定事項を実行するという意思の統一がない状態。
 3.議事内容が整理されていない
  議事が整理されておらず、参加者の理解にずれが生じている状態。
 4.安易に妥協しようとする
  安易に多数決で解決しようとし、少数派の意見が無視されてしまう状態。
 5.結論があいまいなまま会議が終わる
  結論があいまいで、その後の行動に反映されず、参加者も納得していない状態。

確かに、こういう会議が世の中には多いし、改善が必要である。

しかし、だからと言っていきなり「ファシリテーション」なのか?というのは少し疑問が残る。

ファシリテーターを調べてみると、「議論の交通整理をし参加者の意見の舵取りをする人で中立的な立場でプロセスを管理する役割」というような定義になっているが、会社の中ではそんな人なんて設定しようがないし、有り得ない役割だと思う。

会社の会議ではあくまで担当部署の人たちで構成されるので、議決に参加しない中立的な立場の人、言ってみれば「よそ者」なんて居るはずがない。この時点でファシリテーション自体が幻想であることがわかる。

ファシリテーションの講習を受けるたびに違和感があるのが、そういう中立的な立場の人がさも「必要なんです」かのように言う点だ。そんな人は会社にはいないのである。あと、実際そのファシリテーションのある会議なるものを体験すると、なんだかんだといいながらファシリテーターが議論を誘導してしまい気分が悪くなることが多い。まあ、悪い研修にあたったんだと思うが、そういう講習を受けてる時間こそが勿体ないと思ってしまう。

一流のコンサルタントか何か知らんが、修羅場を一度もくぐったこともないような人に偉そうにされるほど腹の立つことはない。癇に障るのだ。こういうのを有難がるのはもうやめようではないかと思うのだ。

そういう研修では、よく「傾聴」態度について解説があり、よく聴きましょうという話になる。しかし、みんながみんな聴いてたらだれも喋る人が居なくなるのだ。一斉に誰もが聴く耳を持ったところで議論は一向に進まない。やっぱり喋る人がいるのだ。傾聴ではなく、「反論をするな」というルールで十分である。

そういう意味では以前このブログに書いたフィンランドの小学生が作った「会議のルール」を守ることの方が大事だ。

ルールに基づいた会議のあり方を模索するべきで、ファシリテーションという技術にばかり頼る必要はないと思う。

そもそも日本は大昔から「話し合い」を重視してきた。その議論は一晩中でも話し合うというものだった。途中酒を酌み交わしながら、議論が脱線しながらも、参加者全員が納得し合うまで話を続ける文化であった。三日三晩話し合いを続けたあと、そこに村の長老が「そろそろ皆の者の意見も出揃ったので、決めようではないか」と一声入れるということで、ようやく一つの議論の終止符が打たれるという流れだった。これが日本流のファシリテーションであり、ファシリテーターは村の長老である。

外国からやってきたコーチングとかファシリテーションであるが、大昔から日本にも似たような技術があるのである。

今はそんな悠長な会議はできないのでそのあたりを端折って短時間でやろうとするのだが、しかしだからと言って「ファシリテーション」なる技術を持ち出す必要はないと思う。ましてや議長以外にファシリテーターなる人を設定する必要もない。

日本的な会議はあくまで長時間喧々諤々とやりながらも、最終的には皆が納得できる落とし所に落とすということなんだと思うのだ。日本は日本、よそはよそ。

中立的な人なんて会社にいらない。
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7人以上いると話がまとまらない

昨日井戸端会議みたいな会議が多いと書いたが、井戸端会議は3人ぐらいが基本で、あまり人が多いと話題がひとつに集中できない。

プロジェクトということで10人以上の人が一堂に会して議論をするなんてことがあるが、そんなに人が多いと議論が発散してしまい収集がつかなくなる。

政治の世界でよく、なんたら委員会とか、なんたら会議とか言って(菅首相の時にやたら多かったなあ…。)ものものしくロの字型に集まっているのがあるが、あんなので議論ができるはずがない。

会社内の会議などでも同じで、7人以上いると収拾がつかなくなる。

昔、QC活動が華やかなりし頃、その活動の単位は7人までと決められていた。経験的に10人もいると議論が発散することがわかっていたからだと思う。

飲み屋に行っても、7人以上いると話が2つに分かれてしまう。 真ん中に座るとどっち向いて話すべきか困る時が多い。僕の場合、ただでさえ耳が悪いので片方の話題に集中しているのが精一杯で突然逆側から話をふられても何のことかさっぱりということが多い。

話がそれたので戻すが、そういう大勢のメンバーがいる会議では結局細かいことが決められず、ただただ形式的な会議になることが多い。はっきり言ってそんな会議は時間の無駄なので不要だと思う。

多くの人が参加すべきプロジェクトの場合、例えば12人のメンバーで構成されるとした場合、分野別に2つか3つのグループに事前にメンバーを分割し、そのチームの中で前もって議論をしておいて、代表者が決定会議に参加するという形の方が話が進みやすい。

組織は大きくなればなるほど動きにくい。2,3人だとすぐに決定できることも、人が多いと反対意見が増えてなかなか先に進めなくなる。だからと言って、変に事前根回しに奔走するのもおかしな話だ。会議のリーダーがイニシアティブをとって、先程言った分科会的なものを事前に決めておいて、その中で議論してもらうことを最初のミーティングで宣言すべきだと思う。

会議で喋るとなんとなく自己満足してしまい、会議で何を決めるかということよりも、その大事な会議に自分が参加しているということが重要になってくる人が多い。本末転倒である。そこで喋ったということが点数稼ぎに化けている場合もある。しかし、そうやって自説を披露してみたところでいつまでも議論は着地しないのだ。

とにかく、会議のリーダーは着地点をしっかり持って、議論をどういう方向に持っていくのかというシナリオを事前に立ててそれに沿って進めていくべきなのではと思う。それがファシリテーションってことになるのかな…。
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井戸端会議は会議でない

社内に限らずいろいろな会議によく参加するが、井戸端会議のような会議が多い。

結論が見えずに、ただ、参加者それぞれが各々主張して、なんとなく時間が来たら解散という会議のことだ。 参加者はそれなりに主張しているのでまあまあ満足感があるが、会議全体としては何も進んでいない。

問題なのは着地点が共有されていないということだと思う。落としどころがはっきりしないと、いつまでも着地しない。方向性にぶれがあるからだ。

あと、参加者の知識背景が異なると、同じような意見でも感じ取り方が違うので、議論をしているようで実は噛み合っていないことが多い。そういう意味では井戸端会議のレベルにも達していない会議が多いのかもしれない。井戸端会議の場合はご近所さんなので、割と背景が同じレベルの人同士話をしているケースが多い。

噛み合っていない議論を僕は「空中戦」という表現をしている。機体を標的とするのではなく、撃つ弾同士を標的とするという意味なのだが、大空で撃ち合う弾同士が当たる確率なんてほとんどない。すれ違いばかりになる。お互いに標的をきちんと固定して撃たないことにはうまくいかないのである。

何の議論をしていて、どういう方向性に持って行きたいのかということをまず擦り合わせないと会議をやる意味がない。会議は往々にして「声のでかい人の意見が通りやすい」。が、それはもったいないことだ。声のでかい人に限って無責任ということも多い。

なので、不毛な会議を避けるためには、まず、着地点のイメージを具体的に持ち寄る必要がある。システム構築のプロジェクトの場合なんかはわかりやすいが、最終的な画面のラフスケッチを元にその絵を見ながら「たたく」という方式で進めると議論が進みやすい。

「案を出して欲しい」と言うと、口頭でいろんな夢を語るユーザー部署の人が多いが、それを元にこちらでラフスケッチを持って行くと、元々話していたことと全然違うことで、ケチをつける人が多い。

要は喋ってる本人もよくわかっていないのである。具体的な「絵」が出来上がると、不満が見えてくる。やろうとしていたことと違うことに気がつく。一人でもこういう具合なので、何人もの人が参加するプロジェクトでは批判の嵐にあう。しかし元々はそれぞれの参加者が喋ってた内容を実現した「絵」なのである。

すべての人が満足するプロジェクトなんてのはありえない。

どこかで誰かが一歩譲らなくてはいけない。多くの人がHAPPYになるようにするのは調整時間が必要なのだが、最初から口々に「空中戦」を展開していても埒があかない。会議を円滑に進める方法は、最終型の「ラフイメージ」をいきなり提示して、それをたたき台に、みんなで「たたく」ということをやると、知識背景が揃うし、議論の方向性が見えやすい。

いろいろな場所で今日も不毛な会議がやられていると思う。が、せっかく集まったのだから、有効な議論が進行し、参加者がHAPPYになる、前向きな会議をお願いしたいものだ。

ということで、まずは結論のイメージをいきなり提示して、それをたたき台にして議論をし始めるというやり方を積極的におススメしたい。
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ライスワークとライフワーク

IDEA HACKSの本の話の続きだけれど、「会社内個人」を目指す、という話が載っていた。

会社に所属するけれど、会社名や肩書きで勝負するのではなく、個人の力量で仕事をする人のことだ。その力が業界に影響を与えるレベルにまでなれば、その個人が所属している会社も「あの人がいる会社なら…」と評価されるようになる。会社の中での評価を気にせずにやってることが結果として会社の為になるのだ。面白い話だと思う。

IT関連では結構そういう人が多い。有名な人になると違うセミナーで何度も同じ人の講演を聴く機会があったりする。いろんなところで喋られてるのだ。

しかし、その人たちは本業ももちろんしっかりやっている。本業の成果を講演しているので本業がしっかりしてなければ話にならないからだ。

そういう人たちは、つまり本業の中に生き甲斐を見つけた人と言えるのかもしれない。

この本の中で生活するための仕事を「ライスワーク」と読んでいるが、なかなか言い得て妙な表現だ。ご飯を食べる為の仕事ってことだ。

そのライスワークだけでなく、自分の夢や生き甲斐を求めるライフワークの二本立てで生きて行くことが大事だと述べている。

先ほどの講演活動をしている人達はライスワークの中にライフワークの要素を見つけている人でもあり、三本立ての感じがする。

単線の人生だとその会社が行き詰まった時に自分も行き詰まってしまう。日頃から複線、複々線の人生を生きるべきだと思う。

ということで、僕も昨年から結構いろんなことにチャレンジしている。講演活動もそうだけれど、今年は執筆活動にもチャレンジしたいと思う。

どんどんやって行かないとすぐに時間が経過してしまう。考えてはすぐ実行するようにしていきたい。

ボンヤリしてても一日は過ぎて行く。同じ一日なら充実した毎日を過ごせるようにしたいものだと思う。

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