日本の底力を出す時期に来ているのではないか?

11月中旬からもう2ヶ月ほど毎日ブログを更新している。

半分がボヤキみたいなブログであるが、先程「ファシリテーション」に関するエントリーを書きながら思ったのは、結局アメリカなど海外からやってきた「新自由主義経済」「成果主義」「目標管理」「アウトソーシング」「コーチング」「ファシリテーション」という言葉に違和感を感じ反論しているということだ。日本が好きなのだ。

バブル崩壊後のここ20年間、日本はどういうわけか自信を失い、アメリカなど海外のやってることをさも大事に取り入れようとしている。 しかし、どれもこれも全部失敗している。それはそうだ、日本人の気質に全くあわないものばかりだからである。もういい加減このことに気づいても良さそうなものだが、いまだに日本人は自信を失ってばかりだ。

自信の失い方も酷くて、最近は中国に経済で負けたと思っている日本人が多い。GDPでは確かに負けたかも知れないが、あちらは日本の人口の12倍である。一人あたりGDPに換算すると日本の12分の1である。どこが負けているのだろうか?

あと、そもそもGDPで比べるのがおかしい。というのはGDPは国内総生産なので、トヨタやホンダ、Panasonicなどの日本のメーカーが中国の工場で作った製品も中国の生産高にカウントされるのだ。appleの製品も深センで作られているが、あれも中国の工場出荷額としてGDPにカウントされている。GNPに直せば今でも負けてないのである。そもそもスマートフォン一つとっても日本製の部品がなければ製造できないのである。

日本人はもっと自分の国を愛し、自信を持っていいと思う。

このブログで主張しているのはそういうことだ。アメリカからやってきた成果主義や目標管理を会社からなくし、日本文化に根ざした家族主義、イノベーション路線に戻すということである。ところが日本の良いところがここ最近は全然発揮されない。

バブル崩壊後、もう20年である。ここらあたりで、アメリカ発のやり方を再考し、日本独自の方式で経済を再建し、復興に向けて動く時期に来ているのだと思う。
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「マーケット・イン」から新しい「プロダクト・アウト」へ

スティーブ・ジョブズ関連の本が本屋の店頭を賑わせている。

日本では顧客のニーズを探るマーケット・インの考え方が今だに大手を振っているが、アップルを率いていたカリスマCEOのジョブズは典型的なプロダクト・アウト型の開発をし、世界中の人々に新しいニーズを提供してきた。

日本の大企業のようにいまだに成果主義がどうのこうのとか言ってるような会社では当然こんなことは出来っこない。何度もこのブログで書いてきたが成果主義では「目標」そのものが予想範囲内だからだ。アップルは予想できることの遙か上の目標を立てて製品を提供してきた。しかも、チーム全員でその目標に向かって突っ走るという点が並の企業と違うところだ。

ジョブズの言う「仕事はチームスポーツなんだ」という考え方に僕は共感できる。

今までにない新しいサービスを提供する、そんなワクワクするようなプロジェクトに参画するっていうのはやりがいがあると思う。そのチームの中で、それぞれのポジションの役割を果たすっていう仕事のやり方が良い。

そんなチーム活動の中では「君の今期の目標は何かな?」とか、「どこまで頑張れるかな?」などとくだらない面談を上司とやってる暇はないのだ。

目標はチームで共有するものであるし、ワクワクできる面白いプロジェクトなら誰だって自分の全能力を使って頑張れる。くだらないプロジェクトで「頑張れ!」と言われたって頑張れるわけがないのである。

ジョブズのおかげで、いかに「マーケット・イン」型だけではダメということが証明された気がする。作っている側がワクワクするようなものを作ること、いつも「史上最高の…」とプレゼンでジョブズは語っていたが、それくらい自信たっぷりに製品をリリースできるような顧客の真のニーズを先取りした「プロダクト・アウト」型の開発をやるべきなのだ。

顧客は自分の本当のニーズには気がつかない。だから「種(シーズ)をまけ」と銀行時代に良く言われた。

今日ドラッカーのマネジメントについて勉強したが、顧客のために企業が行う施策として重要なのは「マーケティングとイノベーション」とのことだった。マーケティングだけではダメで顧客が望むことの遥か上のニーズをくみ取りイノベーションすること、つまり顧客が気付かない新しいニーズを創造して、それを満足させる新しい製品を提供する、そういう新時代の「プロダクト・アウト」型開発がこれからの時代に必要な考え方なのではと思うのだ。

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街には路地裏が必要。

福島の南相馬から福島空港に向かう道は途中真っ暗だった。車が走っていなければ、本当に真っ暗な「闇」になるのだろう。

電源不足でこの夏は節電をしていたので、暗いのには慣れていたつもりだったが、全然違う暗さだった。本当の真っ暗闇というのは街中にいるとあまり経験できない。

その夜道を老人が籠を背負って歩いていたのには更にびっくり。よく目が見えるものだと感心したが、考えてみれば、昔はどの村もそんな感じだったはずだ。

福島空港を出て大阪に着く時に飛行機の窓から見た大阪の街の煌びやかな明るさにはあらためて驚いた。神戸の夜景を100万ドルの夜景なんて言うが、本当に宝石箱をひっくり返したようなキラメキだった。

今までは当たり前に電気を使えたので、電気の有り難みがよくわからなかったが、震災以降その有難さを感じるようになってきた。が、節電しているとは言っても、やはりまだまだものすごく明るいのだ。

僕が子供の頃は、街中でも暗いところが多かった。いわゆる路地裏という場所だ。昼間は遊び場になるが、夜はちょっと暗かった。

先日京都に行ったが、京都にはまだ車の入れない路地があり、なんとも言えないいい雰囲気があった。

大阪にもまだまだそういう場所があるとは思うが開発が進むに連れ、だんだんとそういう路地が減ってきている。

大学生の頃都市開発の勉強をしていた時期があり、その時読んだ本の中に路地裏の必要性を訴えていた本があった。

都市計画のセオリーでいけば、非常に無駄な空間だけれどそこがコミュニティ空間になり住む人たちの連帯感が保てる場になるのだ。

江戸時代の風景の中に出てくる長屋の奥さんたちが洗濯をしながら井戸端会議をし、その近くで子供達が遊んでいるというそういう感じ。その路地がどんどん減ってきている。

不動産取引上、家の前面道路は4m幅が必要で、無ければ、中心線から2mセットバック(道路幅を広げるため家を後退させる事)しなければならないという事になっている。

自動車を優先するのでそんな事になっている。不動産取引をやり始めて気がついたが、隅切りといって、曲がり角や橋などは車が曲がりやすいように道を斜めに切っている。

道は人のための空間でなく、車のための空間になってしまったのだ。

1970年代に入って、田中角栄の列島改造論以降、土地に価値が生まれ、隣との境界に境界杭が打たれるようになった。土地取引で一番苦労するのがこの境界確認で、昔の土地には杭が打ってないのでどこが境界かを確認しなければいけない。

昔は家に価値があったので、「土地つき」という表示が多かった。今は土地に価値があるので、境界の線引きが問題になる。ブロック塀の幅の真ん中か、右か左かということだが、たかが10センチでも何メートルもあると何百万円も変わることがある。

そんなこんなで土地に権利が発生し、それとともに義務も生まれてしまい、ドラえもんに出てくるようなマンホール置きっぱなしの空き地がなくなり、あっても有刺鉄線が張られ入れなくなってしまった。事故が起きた時の責任を取らされるのを避けるためだ。

こうして無駄な空間が町から徐々に姿を消し、子供達の遊び場や親たちのコミニュケーション空間がどんどん減ってきている。

公園というのもあるが、人は人為的な空間よりも、生活の延長線上のちょっとした空間の方が居心地がいいのだ。

効率化を推進すればするほど、人間が疎外され、街はどんどん非人間的な空間になっていく。きれいにすればするほど、人と人との距離が遠くなっていく。

最近は会社の仕事でもなんでも「効率化」とか「無駄の排除」ばかりが声高に叫ばれるが、こと街づくりに関しては喋ったり遊んだりすることのできる無駄な空間、車の通れない路地や、コミュニティ空間としての井戸端のようなものがいるのだと思う。

土地を個人の自由な取引だけにしてしまうと、街の統一感は失われ、無駄な場所が無くなってしまう。行政が介入すべきはこういう部分だと思う。

震災以降、人と人との絆の大切さを再認識した人が多いと思う。

これから僕たちは経済成長一辺倒な社会や新自由主義がもたらした効率化偏重や成果主義、自己責任といったものを一掃し、無駄もあるけれど、人と人との繋がりを大切にした暖かい場づくり、街づくりをしていかなければいけないと思うのだ。

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やはり「三方よし」が大切

近江商人の経営理念に「三方よし」というのがある。「売り手よし、買い手よし、世間よし」というもの。

商取引では当事者の売り手と買い手だけでなく、その取引が社会全体の幸福につながるものでないといけない。という意味だ。

ところが、現実には圧倒的に「売り手よし」だけの「一方よし」のみが横行している。

この前は「うちの製品を断るお客様はいません」などと言って売りつけるのがいて、余計に買いたくなくなってしまった。そこまであからさまでなくても、「今月末までになんとか契約を」という輩はものすごく多い。

要は、とにかく売りつけて自分の成績をあげたいということだ。

それでは押し売りと同じである。

成果主義になって来てからそういう傾向がものすごく顕著だ。短期的成果を求められてきているので、とにかく「今期中に」という話になる。それも売り手側の今期であって、買い手の今期ではない。

別にIT業界に限った話ではないだろうから、日本中でこんな事が起きているのだろう。

で、結局いつもと同じ議論になってしまうのだけど、やっぱりこの国から「成果主義」を撲滅しないことにはどうにもならない気がする。

昔だってノルマがあったのはあった。だが、それは年功序列の安定した給与体系の上での話であって、今のような降格、降給をちらつかせた不安定な状況下ではない。

売れない商品は営業から改善提案をしていたし、作る側も面白がって新しい商品を開発していた。

そういう協働してやっていくという雰囲気も「成果主義」は打ち砕いてしまった。社内の人間はライバルであって、同志ではなくなってしまった。

そもそも成果を判定する「目標」そのものが「想定可能な範囲」でしか立てなくなっているので、周囲がびっくりするような商品開発はできなくなってしまった。

もういい加減に「成果主義」の呪縛から脱却しないと世の中がダメになってしまう。

早くこのことに経営者は気がついて、ハンドルを元に戻さなければいけないと思う。

が、会社が変わらなくても個人が変わることはできる。一人ひとりが会社にぶら下がるのをやめて、評価など気にせず生きていけばいいのだ。

「会社」というものから一歩距離を置いて、一個人として本当にお客様のためになるものを売り、それが最終的には世の中のためになるという商売。近江商人の商売に転換していくことはできるのではないか?

お客様のために一生懸命頑張る、相手の立場を考えて行動するということは結局良い結果を生むし、意図せずに自分の成果にもなる。

京セラの稲盛氏の言葉に「動機善なりや、私心なかりしか」というのがあるが、僕らに必要なのはこういう無私無欲の気持ちだ。「情けは人のためならず」巡り巡って自分のためになる。日本人は昔からいい事言ってきてるのだ

私心がなければ、社内に壁があっても乗り越えられる。組織の変革を先導できるのはこういう私心のない人だ。

なかなか組織を変革して行くのは難しいのだけど、一つひとつ、みんなの意識が変われば、大きな変革のうねりになると思う。

人のために行動するのが当たり前になる「三方よし」の精神が行き渡った社会。みんなが明るく暮らせるそういう日本にしていきたいものだ。
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日本はなぜ同じ失敗を何度も繰り返すのか?

ものすごいデフレスパイラルだ。

急激な不況に加えて、あらゆる政策が逆立ちしているため、全くもって希望の光が見えてこない。なぜ、これほどのデフレスパイラルで急速に経済がしぼんでしまっている状況で財政緊縮政策を行うのだろうか?

この前の事業仕分けはあくまでコストカットありきで予算の縮小を目指していた。無駄な投資は確かに削減すべきだが、有効なダム・道路建設、ロケット、スーパーコンピュータなどのインフラ整備と科学技術投資については以前のエントリーでも述べたが削減すべきではないのだ。むしろ投資を増加させ有効需要を作っていくべきなのだ。

景気対策として、先日モラトリアム法案が可決したが、短期的カンフル剤として借金繰り延べは効果的だが、今企業が本当にして欲しいことは借金の繰り延べではなく、需要の創造だ。取引の増加なのだ。いくら借金返済を延ばしてもらったところでお金が入らなければ返せないのだ。そもそも通常の会社は借金返済を待ってくれと申請することによる信頼下落というデメリットを嫌うはずだ。

また、もっと不思議なのが膨大な利益をあげている大企業が利益向上をはかるために積極投資をするのではなく、どこもかしこも経費削減に動いてしまうのかということだ。今、各種セミナーでは「いかにコスト削減を行うか?」という話ばかりだ。何百億という利益をあげているのに何故それ以上利益追求のための経費削減をするのだろうか?

コストをカットするということは需要を縮小させること、すなわち生産活動のマイナスを意味する。経済学でいうところの「合成の誤謬」だ。つまり理論的には各々は正しい行動(この場合、会社はコストをカットし、利益をあげるという行動)をとってもそれが回り回って間違った行動になっているということだ。

今はまさしくそういう状況だ。 

平成になって以降、何度も繰り返して来た失敗を何回繰り返せば気が済むのだろうか?

こういう状況で必要な政策はなんと言っても財政出動だ。特に消費需要を喚起するような政策が必要だ。ということで民主党は「子ども手当」をマニフェストに書いたのだろうが、ここまで不況で家計が傷ついている状況では「子ども手当」はあくまで赤字補填にしかならず経済は循環しない。タンス預金か借金の返済かギャンブルへの投資にしか回らず、実体経済には何ら影響を与えない。

今、電車に乗れば、司法書士法人の宣伝ばかりだ。高い金利で借りた借金の一部を返してもらおうという趣旨の広告が目につく。それほどまで高利貸しに借りている人が多いということだ。毎月1500万円も「子ども手当」をもらっているような首相では家計がどこまで傷ついているのかという惨状はまったくわからないだろう。

消費需要を喚起する政策というのは「子ども手当」のような直接家計に注入するような社会主義的なやり方ではなく、あくまで賃金上昇を促す大型投資がメインだ。つまり賃金を保証する政策が必要なのだ。企業が将来にわたって「あなたの給料は年々あがっていきますよ。そのつもりでどんどん消費してくださいよ」ということを言えるような保証をしなければいけない。会社側もまちがっても成果主義や降格人事を発令してはいけない。「会社は常にあなたのことを守りますよ。」ということを宣言しなければいけないのだ。それが資本主義社会での会社の使命だと私は思っている。

だから、アメリカのような株主主権主義ではなく、あくまで従業員主権主義の企業であることを徹底させる制度を日本は作るべきなのではないかと思うのだ。政策的には雇用安定制度として、無茶なリストラを抑える制度というようなものだ。

まあ、政策というよりはまずは企業経営者の責任が大きいのかもしれない。いつのまにかこの国は終身雇用という会社の一番大事な心を失ってきている。他社に転職してもかまわないけれど、この会社に来た以上は終身保証しますよという安心感を従業員に与えなければいけない。逆に雇われている側としては一生懸命謙虚に働いて恩を返すという行動にでるべきなのではないだろうか?

それを何を間違ったのか日本の会社はいつのまにか自分を「評価してほしい」という行動でもって自己を正当化する人たちばかりになってしまった。いったいそういう人たちは仕事を何のためにしているのだろうか?本来、私たちが働くのは「会社の仕事を通して社会に貢献するため」なのではないのか?自分の給料さえ上がれば何をしてもいいというのだろうか?

成果主義という間違った思想があまりにも日本中に蔓延してしまった。そういう殺伐とした会社ではなく、年をとっても働ける職場、年長者は重んじられ、肝心なところでは長老が重要な決定をするような昔の村社会を会社の中にもつくり出す必要があるのではないだろうか?

日本人が大切にしてきたものを継承することもなく、我々の世代をはじめてとして若い世代は自己啓発にばかり励んで来てしまった。評価が気になってしまうからだ。だけど、人を評価するのではなく、人の能力を最大限に発揮させられるようにすることがリーダーに与えられた使命のはずだ。「こいつはできる」と評価するのではなく「こいつもできる」ようにすることが大事なのだ。

そういう安定した職場環境の中で、将来にわたって自分の給料は上昇し、定年になれば十分暮らして行ける年金がもらえることが保証された社会であれば、こんな不況は続くはずはなく、どんどんと消費が増えるようになるはずだ。

デフレスパイラルをとめるためにも、今すぐ雇用安定に向けた取り組みを行い、大規模な財政投資により民間投資を増やす努力をするべきだ。あくまで目標は民間投資増と雇用安定であり、間違っても「子ども手当」のようなバラまき政策ではないはずだ。

あとは大企業を中心とした経営者が集まって日本の景気を向上させるための雇用促進、雇用安定についてしっかりと話し合いの場をもつべきなのではないだろうかと思うのだ。経営者の集まり(財界?)というのがあるのならば、緊急に召集してこの国の将来を経営者達が考えてほしいものだ。いますぐ。
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流されやすい国民

政権交代ありきの流れで選挙戦が流れている。

前回の衆議院選挙では郵政民営化の熱にうなされた人たちが自民党に入れたが、今度は政権交代の熱にうなされたように民主党に投票するようだ。

「寄らば大樹の陰」、「長いものには巻かれろ」という気風がどうも日本国民にあるのは仕方ないかもしれない。

しかし、先日、日の丸を切り刻んで縫い合わせて党旗を作るという信じられないことをやっていた政党なのだ。政権をとった暁にはもっと信じられないことが連発することだろう。

目の前の生活が苦しいからといって、政権が交代しても別にその苦しさから解放されるわけではない。財源のはっきりしていない子ども手当などをばらまかれた先には、考えられないくらいの増税になるか、年金が大幅減額になるかのどちらかになるのだ。安易に目の前の幸せをつかみ取るのはやめるべきだと思う。

昨日、電話で「民主党の○○に投票をお願いします」という依頼の電話があった。しかも「民団△△支部の推薦で」という。「なにそれ?」「民団?」なぜ在日韓国人の組織が民主党を応援しているんだろう?ものすごくあやしいじゃないか。

民主党が政権をとった暁には在日外国人に参政権が付与されるのだろうか?それはちょっと待てと言いたい。そもそも民主党のマニフェストにそんなことはどこにも書いてないではないか?前からそんなことを言ってた政党だが、選挙が近づくにつれてトーンダウンしている。だけどやっぱりやるんだろうか?ということはマニフェストにうたってないけど実施することが山ほどあるということではないか?

であればマニフェストって何?と聞きたい。

国民に耳障りの良いことだけを並べたのがマニフェストなら、そんなものは無意味ではないのか。基本政策として実施することを全部載せよといいたい。そもそも在日韓国人には韓国の参政権があるのだ。なぜ日本の参政権が必要なのか?日本の参政権が必要なら日本に帰化すべきなのではないだろうか?

民主党が何をしたい政党なのか私には全くよくわからない。そもそもそんな逆効果丸出しの電話依頼なんてのがあるんだろうか?
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古い温泉旅館で考えたこと

先ほどのエントリーで泊まったホテルが古すぎたと書いたけど、はっきりいって旅行初日に泊まったホテルがゴージャスすぎたので、なんだこれ?と思ったのだ。なぜか?

それはその2つの旅館の料金がほとんど変わらなかったからなのだ。超ゴージャスなホテルとひなびた温泉宿がなぜ同じ料金なのかと…。一般ユーザとしてはどう考えても理解しがたいのだ。

ネット上の口コミではその古い旅館もかなり好評価だ。料理などでも日本の100選に入るような良い評価なのだけれど、実際に行ってみて感じたことは全然口コミと違ったということだ。ネットがいかにあてにならないかということでもある。とにかくとんでもなく古すぎるということにつきるのだ。最近はちょっとしたレトロブームだけれど、古いだけでは勝てないと思う。

確かに接客は非常に良いし、温泉の質も良かった。だけどあまりにも古いのだ。20年前ならば当然に高い評価だと思う。しかしながら現代においてはその古さが接客の良さと温泉の質の良さを全部駆逐してしまうほどひどいのだ。

とにかく畳も毛羽立っているし、壁もシミだらけ、廊下の絨毯にしろ、壁にしろすべてが汚いまま。夏なのにプールに水はなく、ひび割れたまま草だらけ。肝心の温泉も設備に難があり、汚いままだ。泉質が良さそうなので余計にもったいない。すべてにおいて抜本的なリニューアルが必要なのだ。

食事の会場も30年前の百貨店のレストランのような感じだし、お土産物コーナーも従業員が突っ立ってこっちを見ているので買い辛いことこの上ない。あか抜けない地方の百貨店そのものの雰囲気だ。

伸び悩んでいる企業の大半の縮図を見ている感じだ。

過去の栄光に満足して、時代に応じて必要な抜本的な改革を置き去りにしている企業が最近になってどんどん衰退している。このホテルだってそうだ。この温泉の接客や食事や泉質を好むリピータが一生懸命いろんなところで応援しているからなんとか維持できているが、私のような中立的な一般顧客には絶対受けないだろう。よしにつけ悪しきにつけ人も会社も変わって行かなければいけないのだ。それをいつまでも過去にしがみついたままでは発展できない。

一般顧客に迎合することだけがいいというわけではない。礼儀作法がなってない人にまで迎合する必要はない。もちろん政権交代が最近話題になっているがそういう時代の流れに棹するだけの生き方を奨励するわけでもない。だけど、時代が止まったまま前進をしないという生き方には私は与しない。

現場からの改善というのはとても大事だ。常に顧客はどう思っているのかということを念頭に改善をし続けて行くということが大切だ。改善なくして進歩なし。

さっきのホテルだって現場の従業員が「こんな汚くていいのか?」と支配人に具申するというアクションが大事だ。なぜ意見具申しないのだろうか?「多少汚くてもこのホテルの良さを伝えることが大事なんだよ」と言う人ばかりなのだろうか?おかしいけどしょうがないという顔をした従業員ばかりが目についてしまったのは私だけだろうか。

特に衰退する企業の末期症状がコスト削減だ。コスト削減に走って、設備も古いままにしていては顧客からそっぽを向かれる。「顧客から見える部分をケチっては絶対に発展しない」と思う。ケチる企業は衰退するのだ。

泊まった部屋には長ったらしいアンケートがあった。「なぜ当ホテルを選びましたか?」「満足いただけたのは…」などのアンケートだ。アンケートを取ることは良いことだが、これだけ汚いのに満足したか?とよく聞けるなと思ってしまう。

20年間他のホテルに泊まったことがなければこういうことも言えるのかもしれない。要は「ライバル企業を研究し尽くさない企業は衰退する」ということだと思う。

とにかく眺望もすばらしく、泉質もよく、料理も良いのだから、抜本的な改善をスピードをあげてやって行けば、更に顧客満足度は向上していくと思うのだが…。

こういう、あと一歩の投資を避け、現状に満足してしまう企業が多いのではないだろうか…。残念なことに。
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消費税アップが当然の流れになっている

「消費税10%でもしょうがないよ」という意見に最近のマスコミは流れている。消費税10%でも財政健全化は2020年以降になると昨日の新聞に書いてあった。

でも、これ本当だろうか?基本的な議論もなく、ただただ何回も言っているうちに既成事実化しようとしているようにしか思えない。

そもそも、財政としての使われ方が正しいのかが全く議論されていない。無駄遣いの多い省庁のスリム化が進んでいるようにも思えないし、ハコもの行政が是正されたようにも見えない。無駄の象徴ともいうべき地方空港はどんどん作られ、どんどん赤字を垂れ流している。

まずやるべきことは歳入の増加策ではなく、無駄の排除による歳出の削減のはずだ。国土の保全、安全対策、教育、防衛など、政府は必要な事業をもっと絞り込むべきだと思う。そういう意味では政府がやるべき事業以外の民営化はしっかりとやるべきだ。民営化できない部分を国がしっかりとやるということだ。

歳出削減策をしっかりとさせたあと、歳入増加策としては、私はやっぱり「累進課税の強化」が必要だと思う。大前研一氏などの著作を読むと「フラットタックス」の導入を推奨しているし、政府もその方向に流れているように見える。が、全国民の一律20%程度の課税はどうしてもおかしいと思う。金持ちはますます可処分所得が増え、貧乏人は生活が更に苦しくなる。こういうのはおかしいと思う。脱税が一般化している国はフラットタックスにすることで逆に税収が増えるのかもしれないが、日本はほぼ真面目に納税している人が多く、たたいてもほこりがあまり出てこないと思うのだ。

累進課税制度の良い点は、景気が良くなり収入が増えると自然に税収が増えるという点だ。お金持ちにとっては憎い制度かもしれないが、欲望はいくら達成されても次の欲望が生まれてきて限りないのだ。

ところが、小泉政権のときに最高税率がカットされ、金持ちは優遇されるようになった。この反動で今の消費税10%の議論が出ているのだと思う。諸外国は10%以上の消費税がかかるのに対して日本の消費税は低いことをアピールしているようだが、年金や保険料なども合わせた額はそんなに諸外国と開きはない。むしろ、教育と医療が無料でないという点で、いったい我々のお金を何に使っているのだろうか?と問いただしたいくらいだ。

消費税10%にして教育と医療が無料になるのであれば応援したいし、どんどん払う気になる。が、そういう見返りはないのに消費税が上がるのは解せない。

政府が行うべきことはまず、制度の徹底だ。教育、医療を無料にするにはどうすべきなのか、年金制度を維持するにはどうすべきなのか、無駄な投資はしていないのか、ということを徹底的に整理した上で、税収を増やすには金持ちから取るということを徹底すべきだ。

そのためには所得税の累進課税の最高税率のアップがまず必要だと思う。譲渡所得への課税も徹底すべきだ。株や不動産など汗をかかずに儲かるものに税金をかけるべきだと思う。法人税の累進課税も徹底すべきだ。何兆円も法人が儲ける必要はないと思う。儲かっている企業はどんどん税金を払うべきだと思う。そのためには払いがいのあるしっかりとした政府でなければいけないけどね。
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