2024年、会社はなくなる!?

マインドマップで有名な神田昌典さんの本を読んだ。

こういうハウツー系の表題の本はあまり手に取らないのだが、『なぜ、神田昌典は「日本人の未来は明るい」と言い切れるのか? 』という帯が気になって手に取ってみた。

読むとすごく引きこまれた。先日のブログにも書いたが、僕は歴史が70年くらいの周期で繰り返しているのでは?と思っているのだが、同じ事をこの著者も書いている。小泉元首相が浜口雄幸に似ていると言われた頃から歴史が繰り返しているのではと思っていて、その後の短命内閣の連続でまさしく戦前と同じだなと感じていたのだが、こうして本に書かれると、やっぱりと思ってしまう。同じようなことを考えている人がいるのだ。

ということで、現在は変革期に直面している。70年前といえば戦争の真っ只中である。変革と言うよりも破壊と創造が起こった頃と言えるのかもしれない。

で、第4章の表題がすごい「2024年、会社はなくなる!?」である。

確かに、今の大企業はどこかおかしい。意思決定が遅く、新規案件は軒並み握りつぶされる。全く前に進めない企業が多い。

その点中小企業は小回りが効いて意思決定も早い。ITの世界でもクラウドが出てきたので、小さな会社でもすぐに本格的なWeb開発環境を手にすることができる、大手の企業と対等に戦えるインフラが整ってきている。こうなってくると、機動性が高いかどうかが企業の勝敗を決めてしまう。大企業の人たちと話していると「内部統制がどうのこうの」「セキュリティがどうのこうの」などなど、動けない理由ばかりを並べ立てて、一向に前に進まない。これでは著者が言うようにあと10年もすれば大企業は衰退していくばかりだろう。

会社がなくなる理由として次の3点をあげている。
  1. 会社では社員が育たない。
    成熟期の既存事業はシステム化されているため従業員はオペレーターになっているだけ。事業立ち上げを経験できなければ脳を使わない。
  2. 会社では無から有を生み出す経験が積めない  
    新規事業を立ち上げるにはリスクがあるため、決裁されない。
    リスクのあることに会社は及び腰になるため、事業立ち上げ経験が積めない。
  3. 一部の仕事をしている社員が抜けると、会社には何も残らない。
    優秀な人材はフリーエージェントとして会社にいなくても仕事ができるようになる。
    かくして、会社にはオペレーターだけが残る。
その後について、著者はNPOが中心になっていくと言っている。ドラッカーの「ネクスト・ソサエティ」にもそう書かれていたが、確かに社会貢献活動が少しずつ日本に根付いてきているような気がする。

何のために仕事をしているのか?っていうのを突き詰めると結局、「世の中を良くするため」にということになるのではないだろうか。日本人は「利他」の精神があるし、他人のために何かをしようという人が多い。

これからは会社のビジョンが明確な機動力のある小さな会社やNPOが世の中の中心になっていき、現状維持ばかりで前に進まない大企業は衰退していくのかもと、あらためて感じた次第であります。

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空気を読まない生き方

昔読みかけて挫折した「君主論」。自宅の本棚を探したがなかったのでおそらく今は某古書チェーン店の棚に収まっていると思うが、もう一度読みたくなってきた。

成毛眞氏が書くとどうしてこんなふうに読みやすくて刺激的な内容になるのか不思議だが、「大人げない大人になれ」の読後と似たような爽快感に包まれる。

いつの時代もリーダーのあるべき姿というのは同じで、いざというときに毅然とした対応ができるかどうかということだ。平和な時のリーダーは愚鈍でもつとまる。変革期に必要なのは強烈なリーダーシップである。なので、そのためにも普段から媚びない姿勢が大事だ。

マキアヴェッリがが言う「ためらいなく敵か味方かを打ち出せ」というのは一見トラブルを発生させるだけのように感じるのだが、どっちつかずの態度をとっていると、結局その人は敵か味方かがわからないため両方から相手にされなくなってしまう。最近の日本の外交のように中国にも米国にもいい顔をしようとするから両方から相手にされなくなってしまう。

自分のスタンスを表明できないリーダーが多すぎる。敵をつくらないようにするあまり、どっちつかずの対応をしてなるべく波風を立てない方向に進めようとしてしまう。

なんだか、強く感じるのは、最近の日本の問題点は「空気を読む」人ばかりになってしまったということだ。

学校時代から「同調圧力」が強く、突出した個性を出さないようになってしまっている。みんなと違うことをしているといじめの対象になってしまうため、なるべくみんなと同じようにしようとする。

会社に入ってもリクルートスーツも全く同じ、髪型や喋り方まで似ている。成果主義なので欠点をださないように無茶なことはしない。そういう彼らは弱くなっているので、波風を立てないように上司は部下に気をつかい「頑張ってるね」とか「期待しているよ」と声かけをしては調和を保とうとする。それがコーチングとか傾聴態度などということになってしまい、メンタルをことさら刺激しないことが、さも良い事のように取り扱われてしまう。

しかし、空気を読んでばかりいても改革など出来るわけがない。

リーダーに必要なのは、「俺はこう」と決めたらそっちに突き進むことが必要である。あまりにもそれがズレていれば、修正すればいいだけだ。(最初からズレてる人間は本来リーダーになる素質のない人であり、そのうち誰もついていかなくなる。)分かれ道で右に進むのか、左に進むのかに迷って、足踏みの練習ばかりしているようでは、一向に前進しないし、そのうち別の連中が横から入ってきて行く手を遮ってしまうのだ。なのでリーダーはしっかりとした判断軸を持ってどっちかに猛烈に進んで道無き道であれ突進することが大事だ。万が一崖に落ちても、また這い上がればいいのだ。

空気を読むってことは、結局ゆでガエルになってるってことだ。

なので、これからは「空気を読まない」ことにしたい。

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「人生がときめく片づけの魔法」を読んで

超ベストセラー「人生がときめく片づけの魔法」を読んだ。

なるほどなとは思ったが、何と言っても著者が可愛いというのが本が売れた一番のポイントだと思う。同じ内容をおばさんが指摘しても「なるほどー!」とは思わない。本を手に取って「こんな子が片づけの本を書いているのか〜」という好奇心から本を買うという行動に移るのではと思った。最近マーケティングに興味があるのでそういうことばかり気になる次第なのです…。ちなみに著者近藤麻理恵さんの名前を略した「こんまり流の片づけ術」というのは、女子の間では結構浸透しているようだ。

この片付け術を一言でいうと、「手に取ってときめくものだけを残してほかを捨てる」ということだ。モノ別に衣類、本類、書類、小物類、思い出品の順番に一気に捨てるということを薦めている。

僕自身、衣類は元々少ないのでいいのだが、本や書類が馬鹿みたいにたくさんある。何度となくブックオフに持っていったりしているのだが、捨てる端からまた買ってくるので一向になくならない。しかしその膨大の本の数々を読んだからといって賢くなっている訳でもない。いい加減にしなければと思っていた矢先のこの本である。なかなか面白かった。

著者が力説しているのは、手に触れてときめかないものは処分し、ときめくものだけに囲まれた理想的な空間にいると、新しい自分(本当に求めていた自分)を発見するということだ。「ときめく」という言葉に置き換えているが、これは「自分の本来の夢」のことを意味していると思う。本来の自分は何をしたかったのかということを片付けたことで再発見するようになるということだ。

どういう空間で暮らしたいかというのはかなり重要だ。歌手になりたかった人は楽器に囲まれたいだろうし、作家になりたかった人は本に囲まれて暮らしたいだろう。料理が好きな人はキッチンの空間を重視するだろうし、植物に囲まれたい人というのもいるだろう。つまりこの本は「片づけ」というキーワードで書かれているが、インテリア空間をどうデザインするべきかという内容の本でもある。

なので、不要なものを捨て、できるだけ小さく収納し、自分の好きな物だけが目に見える範囲に存在するという形をとるというアプローチだ。こうすることで、ますます自分のやりたかったことが明確になり、人生そのものまでもがHAPPYになるという内容だ。

ということで、今日は朝から職場の机の引き出しにある書類を「原則全部捨てる」というやり方でやってみた。とにかくここ1年見てないものばかりなので即シュレッダーである。山のようにあった書類がなくなると気持ちがよいものだ。が、まだまだたくさん残っているので明日中になんとかしようと思う。

で、週末は自宅の本をまたまた大処分する予定。本だけでなく、キーボードもパソコンラックもなにもかも捨ててクリーンセンターに持っていく予定。できると思う。
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じみへん倫理教室

評価:
南部 ヤスヒロ
小学館
コメント:「じみへん」って深いんだ…。

図書館で借りてきた「じみへん倫理教室」が面白い。

中崎タツヤ氏の漫画「じみへん」を高校の「倫理」の教師が解説している本なのだが、驚いた。ボンヤリと読んでいるときには「じみへん」って面白いナ、っていう程度で終わっていたのだが、倫理的な解説をしてもらって(予習をして)読む「じみへん」はオソロシク深い内容だったのである。すごいな中崎タツヤ。「世間体に縛られる」「机上の空論」「キレイ事は通用しない」「主観と客観」…などなどそういう倫理的なことを描いていたのである。

最近の日本の問題点であげられるのが「世間体に縛られる」というところ。所謂「同調圧力」が強い。

就職活動のスタイルが皆ほとんど同じである。20年前の入社式では個性豊かな服装だったのが今は信じられないくらい殆ど同じスーツ姿になっているとのこと。そういえば街をあるいている女性のほとんどが同じような格好である。髪型までよく似ている。

子供の頃からイジメにあわないために突出した行動に出ないようになっているらしい。長いものにはまかれろという感じなのだろうか…。出る杭は打たれるのが嫌でみんなに同調してしまう。

大学生になってコンパ一つとっても「誰が出るか」、「どんな服装で出るか」というのを事前に携帯メールで示し合わせないと参加できないようだ。

子供が悪いのではなく、「子供は大人の鏡」である。大人である僕らが会社の中で突出した行動に出て「悪い評価」を貰わないようにしていることが影響しているような気がしてならない。まあまあ平均ちょっと上くらいを目標に目指すくだらない「成果主義」の中で生きているので、子供世代にもそういう小賢しい生き方が蔓延してしまう。そんなバカげた世の中だから漫画になるのかもしれない。

それにしても、こんな感じで、漫画で世の中を見せる、「倫理」のポイントを教えるというスタイルは良い教育だなと思う。

倫理などはイメージしにくいが、「ああ、あの漫画のこれね」っていう感じでイメージできれば頭に残る。南部ヤスヒロ氏の別の作品相原コージ氏との共著「4コマ哲学教室」も読むことにしよう。 
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「株式会社という病」

「評価」制度に非常に違和感を感じている。

「成果主義」に「評価」というものはつきものというか、評価しなければ成果主義にはならないのだろうが、面談をしたり、評価をしたりというのを勤務時間にしているのでは時間がもったいない。その時間を生産的な仕事に使うほうだよっぽど効率が良いと思う。だいたい悪い評価をされた日にはいくら面談されても腹が立つばかりで、訳のわからない理由を並べ立てられた所で評価している人の主観が入っているので「ま、あなたはそう思ってるかもしれんけど、世間的に見たらあなたのほうがおかしいんちゃうか?」と思うことになる。

全く仕事をしない人に対して罰則規定を設けるのはまあ仕方がないかなとは思うが、その人なりに一生懸命やってる場合に、ダメ出しをして悪い評価をつけたり、降格、降給扱いなどにしていいものなのだろうか?

世の中にはいろんな人がいて成り立っているし、仕事の良し悪しはそれを評価する人の主観が入った極めて相対的なものである。人には得手不得手があるし、目立つ目立たないというのはあるが、そんないい加減なもので評価をすることにどれほどの意味があるのだろうか?

水戸黄門御一行の「うっかり八兵衛」を誰が「君は評価「E」だよ」などと評価するだろうか?うっかり八兵衛がいて、由美かおるがいて、風車の弥七がいるから、和やかにあの集団は旅を続けられるのだ。助さん格さんみたいなのだけで構成されていたらちっとも面白くないし、そもそも番組として成り立たない。「七人の侍」でも三船敏郎扮する菊千代は侍としてはダメなんだけど、彼がいたから場が和み、農民たちの心が動いたのだ。

いろんなキャラクターの人たちで構成されていないと組織はガタガタになる。

同質的な人間だけで構成されていると誤った方向に走ってしまうことになりかねない。オウム真理教がまさしくそれで、洗脳によって同じ思考をした信者を作ったことによって、あんな事件にまでなった。ちょっと考えればわかることが組織の方向に従う人間ばかりになると異常な事態が発生するのだ。組織の中には場を和まる人間も必要だし、変な方向に向かっているのに対して毅然と反対意見を出す人がいなければいけないのだ。

そんなことあんなことをいろいろ考えているとやっぱり「評価」などできっこないではないか。人間的に深みも幅もなにもない人達が「あいつはイイとか、あいつはダメ」とか言ってるのは想像するだけでおかしな話だ。「オマエが言えるのか?」と。

はっきり言って、日本の「成果主義」は破綻している。もうこんな変な制度はやめるべきだ…。

と、こんなことをつらつら考えて本屋に入ったところ、この「株式会社という病」という本が目に飛び込んできた。読みすすめていくと、なるほどと思えることばかり。

この本の中では「成果主義」のことには言及していないが、もっと強烈にそもそも「株式会社」の構造がもともと「金銭欲」を追求する「病の構造」になっているのだとしている。

金銭フェチの彼(会社)をこう定義している「お金が大好きで、お金を儲けることにしか興味がなく、無駄な出費はしない。利益にならない友人とは付き合わず、責任は極力他人に押し付ける。他人に厳しく、相手を押しのけてでも自分を主張する人」人間だったら絶対に付き合いたくないようなそんな彼が会社の本当の姿なのだと言っている。

そして、社会が発展していけば行くほど、その「病の性格」が浮き彫りになり、(本書の中では「光を集める生活は/それだけ深い闇をつくり出すだろう」という2行詩で表現している)会社と個人の関係がおかしくなっていくのだ。光が強いほど闇は深まる。ライブドア、不二家、雪印などの不祥事が起こり始めたのもその流れで、いまでもオリンパス、大王製紙など会社の闇は増えていくばかりだ。

筆者はこの会社という構造そのものが「病」であることを自覚し、そういう病んだものと付き合う「付き合い方」を考える事そういう「知的な自覚」が大事なのではないかと主張する。なるほどなと思った。

しかし、成果主義についてはその論点では説明しきれない。会社の構造が唯一「利益至上主義」だけであったとしても、それであれば、従業員をもっと仕事に向きあえるようにするべきであって、やる気を失わせるようなことをするのはそもそもおかしい。

おかしいおかしいと言っててもはじまらないが、結局、個人の目的と会社の目的は一致しないのだから、距離をおいて付き合うしかないのだろう。がしかし、一日のうちの大部分を過ごすのが会社でもあるので、これがいただけない。距離を置こうにも置けないという事情がある。

が、会社にも色々あって、最近付き合っているWebサイト制作会社などは、なんだか和気あいあいとしていて、仕事をしているのが楽しそうだ。戦後の会社もそうだったのかもしれないが、創業当初は若い人ばかりなのでそれほど格差もなくフラットな構造をしているのが良いのかも知れない。ほとんどの社員がFacebookで個人情報をオープンにしているし、上司とか部下とかでなく(肩書きはあるのだけれど)友達同士の感覚で切磋琢磨している。

彼らが活き活きしているのは、社員全員がWebの開発スキルを保有しているということだからなのではないかと思う。ある程度修行すれば起業できるノウハウを持っているということだ。これは昔の商家が暖簾分けをする形に似ている。会社として集まっても、いずれどこかで起業できるのだというライフプランを持っていれれば、今この時に集中できるのかもしれない。

大きな企業に所属している人たちは、自分で会社を起こすだけのスキルを習得しにくい。大きな組織では組織の中の一部の仕事しか担当できないからだ。だから会社と距離を置くことも出来ず、その会社に居続けなければいけないという状況になっている。そんな状態の中に「成果主義」「評価」などというものを取り入れるので、確たるスキルもない無免許状態の上司は、部下にスゴイのが現れると戦々恐々としてしまう。まあしかし、そんな人達ばかりで構成された会社はいずれ淘汰されるのだろう。

だからなのか最近大企業の人たちと話をしていると「元気がない」と感じるのかもしれない。自分で「生きる力」を持つことが難しい閉塞的な状況下にあるのでパワーを感じられないのだろうか…。

会社と距離を置くためにも、会社への過度の依存をやめなければならないと思う。依存しすぎるのですべてが会社の論理になってしまい、つぶしが効かなくなってしまう。

ここまで世の中が変わってしまったのであれば、いつまでも会社にしがみついて生きることはできないと諦めたほうが気が楽だ。依存し続けるそんな人生では心許無いばかりだ。

今からでも遅くはないはず。人生二度なしだ。コツコツとノウハウを身につけて、働く仲間たちが活き活きと働くことができる前述のWEB制作会社のような組織を作っていきたいものだと思う。
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「慈悲の怒り」

評価:
上田紀行
朝日新聞出版
コメント:まさにおっしゃるとおりです。上田先生のストレートな文章が心に刺さります。

ここのところずっと上田紀行氏の本ばかり読んでいる。

最新刊はこの「慈悲の怒り」、副題が〜震災後を生きる心のマネジメント〜

上田先生はまず、このたびの震災を地震・津波による天災と福島第一原発の人災をはっきりと分けて考えるべきだという話から始めている。

天災と人災を一緒くたにして「がんばろう」というのがどうもひっかかると…。原発事故がなかったら頑張れたかもしれないが、原発事故が起こったことですっきりと頑張れない。だから天災の部分と人災の部分を明確にわけるべきだとのことだ。

確かに、震災後一連のACジャパンによる「がんばろう」とか「親切にしよう」とか「自粛しよう」とかの所謂「良いこと」の押し付けが全面に出てきた広告の繰り返しや、なんだか世間の「頑張ろう日本」的な話を聞くたびに、「欲しがりません勝つまでは」という戦時中の雰囲気がものすごく漂っていて、僕の心にモヤモヤ感が広がってかなり滅入っていた。

そのことをストレートに書かれているので、逆に気持ちがストンと落ち着いた。

上田氏はバブル崩壊以降の成果主義の台頭による「安心」「信頼」の崩壊を「第三の敗戦」と位置づけている。「第一の敗戦」が第2次世界大戦における軍事的な敗戦、「第二の敗戦」がバブルの崩壊という経済的な敗戦。この度の東日本大震災はここ10年くらい続いている「第三の敗戦」にどのように影響するかということをこの本の中で問いかけている。

また、今回の原発の対応については、「第一の敗戦」の前夜と全く同じ「日本型総無責任体制」にその原因を見ることができるとしている。「第一の敗戦」である太平洋戦争突入のときも、当時の首脳陣は誰もが戦争反対だったのに「その時のその場の『雰囲気』が日米決戦に突入せざるを得なかった」という話になっている。

今回の原発でも、首脳陣がまるで被害者のように振舞っているところが、当時のA級戦犯と重なってしまうということを資料を元にこの本の中で紹介している。

確かに、日本人は根本部分では戦時体制のころから変わっていないのかもしれない。場の空気を尊重するあげく、自分の意見を言わずに、場の雰囲気に流されてしまう国民。。。

それに加えて、第三の敗戦の原因となった「成果主義」「新自由主義」による「儲け重視」「効率化重視」「人間のモノ化」「人を蹴落とす風潮」…そんなことが複合して今の日本の停滞を生んでいるのかもしれない。

そういう悪しき風潮を駆逐し、日本に古来からあった「村会議重視」(村の長老たちがああでもない、こうでもないと議論を尽くしたあげく決定するというプロセス)という風土をもう一度根付かせれば、少しはこの国も変わるのかも知れない。

タイトルの「慈悲の怒り」とは、仏教では「怒り」は最低の事であるが、それは「人」に向けた怒りは鎮めなければいけないということなのだが、間違った「プロセス」「構造」「組織的な決定」に大しては大いに「怒っていい」ということだ。それを「慈悲の怒り」と呼ぶ。

今回の例で言えば、福島原発の事故状況に対する東電や政府の対応のことだ。肝心の情報が隠蔽され、人の不安感を増殖させた。そのことに対しては「怒って」しかるべきなのだと。

東電の社長の年棒は半額にしても3600万円。これだけの事故を犯しながらまだ給料をもらうという感覚は全く理解出来ないが、決してその社長を憎まず、そういう状況を作り出している状況に「怒る」ということが大事なんだそうだ。「罪を憎んで人を憎まず」に近いのかな…。

それにしても、原発はいつになったら収束するのだろうか。。。
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「生きる意味」

評価:
上田 紀行
岩波書店
¥ 526
コメント:最近一番衝撃を受けた本。上田先生の言うとおりだと思う。

先日、上田紀行先生の講演を聴いてから、ずっと上田先生の本を連続して読んでいる。
最初に読んだのがこの「生きる意味」という本。それ以降ずっと「生きる意味」について考えている。。。

講演の中で、まず、「最近の若い人達は「透明な人間」であろうとする」という話に衝撃を受けた。つまり、自分のカラーや匂いを出さずに極力透明な存在であろうとする人が増えているという話だ。「私って〜、どこにもいそうなタイプの人で〜」というような自己紹介をするのが増えているらしい。結局みんなと同じような自分、取り立てて人と違うことを強調しない「良い子」であろうとする。というのは、異質で目立つと「嫌われる」「いじめられる」からなのだそうだ。そういうことを怖れて、極力自分を出さないのだそうだ。

透明な存在といえば、1997年に起こった神戸の連続児童殺害事件の首謀者酒鬼薔薇少年の犯行声明に「私は透明な存在である。しかしその透明な存在が実在であることを認めていただきたい」と出てくる。

90年代初頭のバブル崩壊後くらいからこの国はどんどんおかしくなって、この事件の翌98年から毎年自殺者が3万人を超えるようになった。もう13年連続となっており、約40万人くらいが自殺している。僕の好きなパラオという国は2万人くらいの人口なので、日本ではこの10年くらいでパラオの20倍もの人が自殺したということだ。異常としかいいようがない。

今調べると、40万人以下の国家は46か国もある。それらの国の人口が日本の自殺者の数と同じなのだ。なんということなのだろうか。もっと身近な例でいうと、鳥取県の人口が58万人。もうすぐ県がひとつ自殺者だけでなくなってしまうということなのだ。

いつからこの国はこんなふうになってしまったのだろうか?

この本の中ではグローバリズムを標榜した「構造改革」「新自由主義」がこの国の「喪失感」を増し、「生きる意味」を失わせたとしている。

この意見には全く同意見だ。ずいぶん前から僕も「成果主義」の問題点をブログなどに書いてきたが、ここまですっきりと直球で批判している本に出会えたのは初めてだった。

そうなのだ。バブル崩壊後の「成果主義」「効率主義」「数字至上主義」が「喪失感」を日本人の心のなかに増大させてきていた。

僕自身。銀行時代にシステムトラブルでは不当な濡れ衣を着さされたり、その後の部署では意味不明な「いじめ」に合ったりした。僕のように突出した意見を言うものは容赦なく切り捨てられるのだ。正論を言うと嫌われる。だからなるべく自分を透明にする人が増えているのかもしれない。でも、そんなことをしていては会社に対する信頼感も育たないし、忠誠心も生まれない。ただ、自分を透明にして目立たずに「ごますり」に精を出せば出世するという馬鹿げた風潮だけが蔓延するだけなのだ。

成果主義でもなければなんでもない。ただ自分を透明にすることが大切なのだ。

透明な存在を続けていくと人はいつか「交換可能な存在」になってしまう。別に僕でなくても他の人がそこにあてがえられるのだ。そんな会社、そんな社会にいつまでも居たいと思うだろうか?

僕はそんなくだらない会社からいち早く脱出したが、会社に身を捧げている人にとっては「神に裏切られた」ように感じるのかも知れない。だから自殺に走るのだろう。

昔の会社は「神様」と同じ存在だった。会社に一生を捧げていれば定年まで保証されたし、その後も企業年金など手厚く保護された。

が、バブル崩壊以降はそういう「安心」「信頼」が一気に壊れてしまった。日本人のように宗教を持たない国民にとっては「生きる意味」を失い、言いようのない「不安」が増殖されてきているのだ。

だけど、少しずつこのことに気づき始めている人たちもいる。日本人はもともと「和」を大切にする国民だった。話し合いで解決をはかる「会議中心主義」の国民なのだ。

そういう古い国の形が戦後の教育で失われてきていたが、ここに来て、日本人の本質を問い直し、大きな和の国「ヤマト(大和)の国」であったことを見直そうという機運が盛り上がってきている。

結局チームのコミュニケーションが大切なのだと思う。村の寄り集まりのように、上下の差もなく、とはいえ長老の言うことにはよく耳を傾け、出席者皆が納得出来る議論をするということが民主主義のベースなのだと思う。この国はそういう小さな村の集合体だったはずなのだ。

話変わるが、
先日、僕を嫌って「いじめ」ていた銀行時代の元次長がフラフラと銀行のATMコーナーから出てきた。髪はボサボサでうだつがあがらないような風体になっていた。で、ぶつかりそうになったので目が合ったのだが、こちらは「久しぶり〜」と言おうとしたが、相手は怯えたように走り去った。「成果主義」の犠牲者を見たような気がした。因果応報なのだ。人を蹴落とすような人間は、結局だれかに蹴落されるのだ。

それでも、転職するキッカケを作ってくれたので正直感謝している。あの男がいなければ転職に踏み切れなかっただろうと思う。人生は何処かで誰かが作用していると思う。

仏教の教義の根本は「縁起」。「縁起」とは「すべてのものが関係性の中にある。関係の中になく自生しているものはない」ということだ。人と人の関係で言えば、誰かがどこかで関係していて、それらは相手によって相対的に関係が変わっていくということ。

先程の話で言えば、僕をいじめていた上司はいじめられていた時には腹のたつ上司だったのだが、いざ、転職する時には感謝している存在であり、先日のATM前遭遇事件では哀れみを感じる存在になっていた。

話は取り留めなくなっていくのだけれど、「生きる意味」を見いだせない時代の中で、「成果主義」だからといって、自分を出さずに上司に言われたことを(間違ってると思いながらも)するとか、人の足を引っ張って自分の優位性を際立たせるというような輩に成り下がらなくて良かったなあとシミジミ感じる。

あるがままに正直に生きること、自分の利益を考えずに人のために生きること、そういう事が「生きる意味」なのかなあと思う。

まだこの本一度読んだだけで完全には読みきれてないので、何度も読んで、自分の「生きる意味」をもう少し見出したいなと思う今日この頃なのでした。

本当にオススメの一冊です。
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「デフレの正体」を読んで、ちょっと昔のことを思い出した。。。

経済書なのに超ベストセラーの「デフレの正体」を読んだ。

日本経済は景気の波ではなく、人口の波で動いていると推論している本だ。確かに団塊の世代が35歳〜40歳という住宅取得意欲が大きくなるころとバブル発生前の時代が合致する。また、現在は団塊の世代がリタイアし急激に「生産年齢人口」が減っていること、またそれに伴い需要が縮小していることも説明がつく。おお、なるほど…。

団塊の世代よりちょっと前なのがうちの親父の世代だけれど、人口の波という言い方はよくわかる。

僕の実家は典型的な新興住宅地だけど、住人はほぼ住友金属と新日鉄(今度合併するけど昔から関係が深かったのかな?)の社員ばかりだった。しかも、ほぼ同世代の人たちばかり。なので、僕らの小学校のころは生徒数が急増し、小学校を一校この新興住宅地の為だけに作ったぐらいだった。

引っ越したのは幼稚園の年長のときで高度経済成長期の真っ只中、1970年。その同質的な新興住宅地で小学校中学校時代を過ごすことになる。同質的と書いたが当たり前で、みんなのお父さんの給料がほとんど一緒なのだ。ときどき違う会社の人もいて飛び抜けてボーナスが高かったりしたのだけどそれは例外で、ほぼ99%おんなじ生活をしている人たちばかりなのだ。これはこれでとても良かった。羨ましいと思ったこともなければ、差別もなかった。しかも経済成長はものすごいので年々生活の質が向上していくのが子供心にもよくわかった。

今は女性が働くことが当たり前だけれど、当時でも僕らの町は父親の給料がそれほど多くなかったので共働きの家がかなり多かった。うちも一人っ子だということもあり、母親は早くから働いていた。なので、どんどん貯蓄が増えていたし、当時は定期預金金利も10%以上あったのですごかった記憶がある。

車を保有している家も少ないので、町の道路という道路は遊び場と化し、児童公園もあったが、もっぱら造成中の空き地で僕らは遊んでいた。それくらい空き地が多かった。

町のメインストリートには八百屋、魚屋、パン屋、果物屋、花屋、植木屋、クリーニング屋、ヤマハ音楽教室などなどいろんなお店が集積し、賑わっていた。毎夕、地元でとれた新鮮な魚が並べられ、威勢のよい声が飛び交っていた。

共働きだったので2年生くらいからよく一人で買い物に行っていたので、お店の人たちとは顔馴染みで、よくおまけをしてもらっていた。当時はレジなどなく、天井から吊り下げたザルにお金を入れていたので、少々価格が変動したって、それは店の大将の裁量でなんとでもなった。おまけなんか今は無理だなって思うけどね。

で、何を買ってるのかも店の人達にばれているので、あとで、母親に報告が行ったりする。勝手におやつを買ってもすぐにバレてしまうのだ。そういう意味では衆人環視の環境ではあるけれども、みんなで子供達を守っているという雰囲気もあった。

開発途中の住宅地なので、すぐ裏に山があり、冒険心の強い小学生にはとっておきの遊び場になっていた。秘密基地なんかも作ったりして、映画「20世紀少年」そのものという感じだった。山も少し入ると松茸山になっていて、シーズンには自生している松茸を見つけることもできた。今考えたらものすごくいい環境だったような気がする。山だけでなく、海も自転車で10分もかからないところなので、夏は泳ぎまくったし。(海の家なんていうしゃれたものは無い自然の海)

そういう意味ではすごくいい子ども時代を過ごした町なのだが、あれから40年。その賑わいは見る影もない。そりゃあそうだ、ほとんど同世代が一気に入居した町の住人は今、ほとんどが70歳前後。老人の町になっているのだ。無残としかいいようがない。

賑わっていたメインストリートには一軒の店もなく、空き地もなく、山も全部住宅地になり、遊ぶ子どもは見かけない。幼稚園は「老人憩の家」に変わっているし、僕らの時には増築していた小学校も近々廃校だ。中学校も廃校の噂だ。どうなるんだろう。子供達は僕と同様に都会に出てしまっているので、あの町に住む老人たちが死ねば、町全体もほとんど廃墟となるのだろうか?今でも十分ゴーストタウン化しているし、あまりに老人が多いので、町が醸しだすオーラもかなり弱っている。実家に帰るたびに勢いの陰りを感じ取ってしまう。

考えて見れば都市計画というか町づくりにビジョンが全くなかったのではないかと思う。が、先々のことを考えずに町を作っているのはこの僕の実家の住宅地だけでなく、最近のミニ開発の分譲地だって同じだ。僕が今住んでいいるマンションも同じだ。同世代人ばかりなのだ。

同世代が津波のように町に住み着いても、ある時期を過ぎると衰退するというこういう状況を思えば、「日本経済」にも同様なことが起こったと思えば理解しやすい。

バブルの崩壊もそういう人口の津波減少だと考えれば合点が行く。需要が旺盛な時には活気があるのだけれど、需要がひとたびなくなれば、次々と衰退の一途をたどってしまう。それは経済的にはもっとも合理的な選択をされているということなのかもしれない。

だからと言って、それでデフレの全部を説明したことにはならないような気がする。中国製の安物を買いすぎて、安物志向に進みすぎたのもひとつの原因だし、安物を作るために外国に工場を移転してしまったことも原因だし、原因はいろいろあるはずだ。

が、それでも確かに「人口変動」の要因はすごく大きいと感じる。一人ひとりの動きは小さくても人口変動はかなりインパクトが強い。一人あたりの生産量が同じでも生産人口が減れば全体の生産量は落ちるわけで、気がつかないうちに内需減少を引き起こしていたのかもしれない。

この本でも処方箋がいろいろ挙げられているが、個人的には一つ目の「高齢富裕層からの所得移転」は賛成だ。高度経済成長期に働いていた団塊の世代以上の人たちは、金利面でも物価面でも所得以上の資産を保有できたのだから、その余剰分を若い人達に還元すべきだと思う。直接子供や孫に小遣いを渡すということでもモチロンいいのだが、消費を例えば10%去年よりも増やすだけでも日本経済には大きなインパクトを与えることができる。僕ら若い世代は余剰資金がないのだ。ないし、使う時間も限られている。リタイアして悠々自適の日々を送っている高齢富裕層はもっともっとお金を使って、日本経済にインパクトを与えて欲しいのだ。

これからの日本企業は、中国が大量生産できるようなものではなく、日本でしかできない高付加価値の製品をつくるべきで、高齢富裕層はそういうものを買っていくべきだと思う。そうすることによって日本に新しい価値が創造できるのではないかと思うのだ。イタリアやドイツの企業のように他国が真似のできないようなブランドを確立し、高品質高価格のものづくりにシフトすべきなのではないかと思うのだ。

あと、いろいろあるけれども、ちょっと書きすぎたので今日はこのあたりで…。


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